ヒマラヤ聖者生活探求
牟尼の説法(牟尼とは聖者のことで、ハスティナプール近在の洞窟(複数)を担当している牟尼の中の一人)
「世界には二つの出来事しかない、人間の意識が確立される以前に既に存在して、現在も実在し未来も存続するものと、人類が人間の智慧で今日まで考えて来、又将来も考えて行くものとの二つである。意識が始まる以前に在ったものは久遠常在であるが、人間の考えるものは無常不確実である。意識以前に在ったものこそ真理であり、人間が真理だと考えるものは人間にとってのみ真理なのである。偉大なる真理の法則が意識されると、今日までの人間の誤った考えは全部雲散霧消してしまう。幾世紀もの時が経ち、進化の過程によって物質の面沙(ベール)が払いのけられると、人類は真理(われわれの所謂、原始宇宙の事実)に回帰しようとする想いが蘇ってくる。そして過去の記憶に満ち、現在の事実に直面しながら、未来への予言を帯びるこれらの想いが、進化し行く全人類の道の上に明瞭に現われてくる。こうして人類は、その誤ちから、今猶(いまなお)厳存する原始の原理に繰返し繰返し呼び戻されるのである。この回帰と繰返しとによって、神の創造が永遠であり、人間そのものも又永遠であることが示される。しかし、人間の造ったものは常に変転し、動、反動の法則の下(もと)にある。人間がその創造に行き過ぎを来すと、かの偉大なる真理の絶対的法則が手を貸して、これら人間の創り出したものを始めのプランに謂(い)わば対面させる。こうして、宇宙の法則は極端な逸脱を決して許さないのである。この法則は常に平等化、平均、調和、を志向して働く。
人間の側のもろもろの偶像や信条にも拘(かか)わらず、この法則は結局人類全体を絶対的実在と完全に融合するように押し込んで行くのである。真理の絶対法則が人間の意識を支配するようになった時には、現実に存在する宇宙の事実と完全には調和せぬ者は、すべて自滅しなければならないのである。人間の考えは、真理が到来すれば、半真理から生まれ出た不完全な自分の創造物などは放棄するように何時(いつ)も造られているものである。
宇宙の絶対法則は十分に満たされなければならない。人間が実在の法則について考えたり、語ったり、或(あるい)は行為をしたりすれば、終局に於(お)いて法則或は実在そのものの中に導入されることは必定(ひつじょう)である。人の中に植え込まれたもので天父によらざるものはすべて根こぎにされるであろう、と古人(こじん)はわれわれに語っている。『盲人を導く盲(め)しいたる者どもを放任せよ。盲人が盲人を導けば、同じ溝(みぞ)の中に落ち込む他ない』のである。
真実と実在とは信じないで俗人の思うものを信ずる者共(ものども)が造りあげた無智、迷妄、幻影の泥沼の中に、全人類という盲人どもが自分で自分を引っ張って来た劫期は急速に終わりつつある。閉ざされつつある世紀(複数)の幻影と迷信との上に興(おこ)ってきた文明も、泥沼の中に沈みつつある。この誤った。もろもろの被造物につきまとう苦悩と悲劇とを経(へ)て、今や新しき人類意識が芽生え急速に展開しつつある。事実、その新しき誕生を迎えて扉が大きく開かれつつあるのである。
意識の一(いち)次元より、現実に存在する宇宙の道の中より高き、より進化でせる次元へと進み行く他には、最早(もはや)ないのである。大宇宙の波動の中で唯(ただ)一(ひと)つ禁じられていることは、人類が自分で思い込んでいるものに固く捉(とら)われ、旧い幻想にやみくもにしがみついて離れず、ために、もっと大きく広く物を考えることが全く出来なくなるような思考の偏向である。 このように自分本位の意識に溺(おぼ)れている者は、アレコレと信じ漁(あさ)ってみたり、いろいろな経験を自然と仕尽(しつ)くしてしまうと、もう二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなる、その時、自然と絶対的法則とが人間を進歩させる慈手を揮(ふる)い出し、病気、苦悩、損失等をへて、遂に人間がそのままで満足し、自分の考え方それ自体の中に迷いという呪(のろ)いのあったことに気づくように仕向けるのである。
もしも或る種族や国民が、実在するものの方ではなく、或(あ)る一部の人間的考え方によって造られたものの方を放下(ほうか)するのを拒(こば)むならば、『法則』がその進歩に介入して、蓄積された彼らの悪(あ)しきバイブレーションが彼ら自身に反射するがままにさせる。するとあらゆる面に戦争、斗争(とうそう)、不調和や死が起って、その種族又は国民は消されてしまう。しかし実はそれも彼らを創造の新しい上昇過程におくためである。かくして人間は人類の意識の始まる以前より実存(じつぞん)していた実在(じつざい)に、新しく接触してやり直すことが出来る。今や文明は偉大なる再建の瞬間に速(すみ)やかに近づきつつある。今は基礎が安定しているように見えるものでも、すべて遠からずして逆転の状態に置かれるであろう。『真理』によって植えつけられてはいない樹木はすべて根こそぎにされよう。現在の社会、政治、経済、宗教、制度の安全な宇宙的転覆(てんぷく)が近づきつつある、それは現在の人類意識の出現以前に既に実存し、今猶(なお)実存するところのものに人類がより一層接近するように、新しき世紀を出現させる余地(よち)を造るであろう。常に実在(じつざい)しつづけた意識を自分自身も又包蔵(ほうぞう)し、それと同じ意識になれることを人間が悟るまで、注意深く、愛と光に満ちた慈愛を以て、真理は待ち続けるであろう。
人類は今や前時代の寝物語(ねものがたり)より一歩前進しつつある、新興の個性や急速に近づきつつある世代の霊的判別力にとっては、かの寝物語の造り成せる幻想どもは、もはや何らの役にも立たぬ。幻想、因襲、迷信どもは終焉に近づきつつある。これらが虚構した文物(ぶんぶつ)また然(しか)りである。古き偶像は小児(しょうに)意識にのみ相応(ふさわ)しく、その小児意識も今や袋小路(ふくろこうじ)に近づきつつある。その幻想もかえって無効となった。それは人類という泣き叫ぶ嬰児(みどりご)をあやして偽(いつわ)りの睡(ねむ)りにつかしめるために、僧侶や説教師(せっきょうし)達がその怪しき才能を揮(ふる)って織り成せる寝物語にすぎぬことが明らかとなったからである。遥か未来を見る者は泣きもせず、また寝かしつけられもしなかった。その多くの者たちは、そのような寝物語が真実ではないことを知っており、非真実を消し去ろうと大胆な進出をした者も少なくなかった。それは『絶対なるもの』、常在(じょうざい)なるもの、人類の中の一部の人々が常に見、知り、且(か)つ直接に触れて来たものを、直接彼等が見通(みとお)していたからである。このような一部の人士(じんし)たちから、人の手によって立てられ、他の者にも従うことを要求する偶像たちを消し去り、天地創造の暁(あかつき)とともに古くて新しき理念を容(い)れる余裕を造るべき態勢にある十二分に目覚めた、新しくしてより活力のある意識が興(おこ)るであろう。
従ってその為には、人類意識を教え、導き、乃至(ないし)、鼓吹(こすい)する人々は、現実の生活の場において、しかも何らの間違いや矛盾のありようのない高い次元において、且(か)つ又、噛(か)んで含めるようなやり方で、指導に当たることが必要である。より高い知性と霊性とを具備(ぐび)した目覚めつつある虎は、もはや二度と寝入ることを拒否するであろう。何故なら、彼らはすでに過去の破片をまき散らされ、誤れる信念から生(しょう)ずる苦痛を受けて失望しているからである。それは『真理』そのものの上に基(もとづ)いた教えによる、より強力な、より活力ある思想を要求している。大衆は、もろもろの信条で縛られた因襲に満ちた過去の数々の世紀を超えて、新生せる人類の心情と生命を啓示する古い古代の託宣に、今や耳を傾けつつあるのである。この新しくて古い託宣こそ、信条に縛られた僧侶達の読経(どきょう)の声を超えて鳴りひびくクラリオン(明快ならっぱの響き)の喚(よ)び音(ね)である。それは戦いの雄叫(おたけ)びより高く、金融、産業、政治、宗教に伴う虚偽(きょぎ)より発する矛盾を隠した声よりのも高く澄んでいる。一部の人類の、信条に縛られた思想の如何(いかん)に拘(かかわ)わらず、神、キリスト、人間、我、生、死等に関する従来の偶像化された考えは、すべて消え去らねばならない、且(か)つ、これら先入観による考えより完全に解き放たれた上で、これらすべての上に建てられた一切は過ぎ行き、払拭されなければならない。この近づき来たる新しきものという地平線の彼方に、全く新しき意味をもつ「贖(あがな)い」が影をさしつつある。このより明晰なるビジョンとより明確なる覚知より出生(しゅっせい)した新しき大衆は、すべての種族、すべての人々より放射される、より深き啓示によって償(つぐな)われるのである。その放射体こそ、すべてのものの中に、すべてのものを貫(つらぬ)いて実在する『一(いち)なる生命』である。
大衆は謬想(びゅうそう)に繋縛(けばく)され、その手は何かにしがみつこうとし、その態度は畏(おそ)れ縮んではいるが、神の、人の裡(うち)なるキリストの、神なる、大我なるキリストの、更(さら)には死そのものの地平は拡大して行く、而(しこう)してその偉大なる、より崇高なる眺望が迫りつつある。再び全世界の上に霊の周期が黎明(れいめい)を告げつつある。水晶人種(訳者註:水晶が透明なように、一切の先入観、因襲、わけても人間智慧の造り出した教条、形式などに全く染まっていない、或はこれを一切払拭した透明な魂、心情を持てる人種の意)の時代が再び大渦巻(おおうずま)きの中より現出(げんしゅつ)しつつあるのである。
一(いち)国民が神について思う都度(つど)、その国民は神になっているのである。何故なら、神が彼らの中に定着し給うからである。神という理念を愛し、礼拝し尊崇(そんすう)する時、彼らは神となる。今や時満(ときみ)ち、彼らは第一遺産を相続し、神霊の中に確立されたのである。何時にてもあれ、人が神について考えれば、彼は神となっているのである。神が彼の裡(うち)に定着した給うたのである。人類の中に生命を吹き込めば、紛(まが)う事なきそれは神である。宇宙にわたる啓示をこのようにより深く理解するならば、神は人類意識が現われ始める前も今も同じである―― 昨日も今日も、未来永劫(えいごう)、同じであることを人は発見する。人の手による仮初(かりそめ)の神殿ではなく、天の中に人の中に永遠に存在する神殿が、『正統』(訳者註:宗教は古来「正統」の名の下に無数の闘争・弾圧・殺戮を繰り返してきた。)と称する灰の中より現実に興(おこ)りつつある。自分の頭で考える偉大なる一(いち)新人種が、巨人の足どりを以て歴史の前面に歩み出て来つつある。いくばくも経(へ)ずして大いなる潮(うしお)が地上に寄せ来り、進化という重荷の下に苦行しつつある人々の道に散(ち)らばった迷妄の破片(はへん)を流し去(さ)るであろう。業(わざ)はすでに成就したのである。数億の人々が身も心も魂も、そして本能までも解明したのである。彼らは、まだ生まれ出てはいないが、後の世の世嗣(よつぎ)となるべき人種の謂(い)わば脈動である。その彼らが手を取り、神と共に歩みつつ、時代々々を超えて行くのが見える。無限なるものの永劫の渚(なぎさ)より大いなる英知の波が彼らに寄せて来る。彼らは敢然(かんぜん)として歩み出(い)で、おのれ自身を永遠なる神、永遠なるキリストの一部なりと宣言する。神と人とは永遠の生命と永久に一(ひとつ)であると宣言する。彼らは敢然(かんぜん)として歩み出(い)で、人間が録(しる)しきった部分が虚妄であり、恐るべき盲目の状態の書かれたものであることを、天に向かって宣言(せんげん)する。
この新しき脈動(みゃくどう)意識は、新しき人類意識を基底(きてい)とする大濤(おおなみ)の浪頭(なみがしら)である。この新人種は、人間を、己(おの)れ自身を、地球上における最高の表現であり、生命それ自身を通じて神と一体であると観(かん)じ、必要なるもはすべて生命それ自身より流れ来ると観(かん)ずる。この新人種は、人は完全なる宇宙の中に在り、完全なる人々と完全なる環境と条件にまったく調和し、宇宙の霊的計画には豪末(ごうまつ)の誤(あやま)りすらないという完全なる確信を以(もっ)て、生きて行くことが出来るのを知っている。
彼らは神を、すべてのものの中に遍満(へんまん)している宇宙霊と観(み)る。そして自分を現在の環境に置き、現在の自分とならしめた基本的な素因(そいん)を、躊躇なく精妙なる心を以(もっ)て検討する。かくして彼は再び自分の始源(しげん)と一体となる。この始源とは、想念によって意識的に無限心とつながり合体している彼自身の神なる心のうち、常に沈黙している部分であることを彼は知っている。この新人種は、栄枯盛衰の何(いず)れにあろうと、悲しむことなく、大いなる愛と真の平和とを魂の底から求めることこそが、神と人とに定められた真理であることを知っている。この人種は躊躇(ちゅうちょ)なく全人類から迷妄という襁褓(おしめ)を引き剥ぐ。従って無知故(ゆえ)に弱き、猜疑(さいぎ)し易(やす)き小我(しょうが)、人間の足を幾代(いくだい)となく繋縛(けばく)したおぞましき妖怪は、完全に消滅させられるであろう。今や完全に現前した真我によって、一切の制約が消え去っている事を彼は自覚する。彼は、彼自身を人間から神へ、そして遂に神へと昇華させたのである」。
暫(しば)らく休憩した後、牟尼は語り給(たま)うた。
(太陽系宇宙の誕生)
「父なる神が人類のために観(かん)じておられることから多くの事柄(ことがら)を学び取った方々がここに同席しておられる。この方々は神霊まで徹見(てっけん)する理解力を以(もっ)て洞見(どうけん)される。故(ゆえ)に、全世界がこの方々には見透(みとお)しである。人類が感じるものがこの方々には見えるのである。故(ゆえ)にこの方々は、人類の希望が達成されるように援助することができる。また、普通には聞くことができない数千の音、例えば蜂雀(はちすずめ)(ハチドリの別名)の歌、今孵(かえ)ったばかりの駒鳥(こまどり)の声、野に鳴くコオロギの調(しら)べ、これらの中には一秒間に一万五千回もの振動数で鳴くのもある。その他、人間の聴覚の範囲を遥かに超える多くの音をお聞きになる。
また全人類を裨益(ひえき)【助け、役立】する愛・調和・完全等の如(ごと)き種々の感情をかもし出す不可聴(ふかちょう)の音を感じ、調整し、放送することもおできになる。
豊かさの感じや大きな歓(よろこ)びのバイブレーションを増幅して放送し、全人類をそれで取り巻き貫(つらぬ)いておられるため、人類一人々々がその気になれば、それらを自分のものにすることが出来るのである。こういうことが事実存在すると分かれば、人類もまた一人々々がこれらのバイブレーションを増幅し放送して協力するであろう。そうなった時、人類の必要とするものは各人、または各集団の周囲やその中に、自然と実現するようになり、すべての希望が実現するに至るのである。一旦、必要なバイブレーションが働き出せば、各人はその実現を避けることは出来ない。こうして人類の完全な要望が結晶し、現実に形をとるのである。
神の創造的な、無限の流動する空間という巨大なる海は、水晶のように透明であるが、それでいて、震動し放射するエネルギーで完全に満ち満ちており、この放射エネルギーを通常、水様質(Aqueous substance)と言い、その中にあらゆる質料、乃至(ないし)、元素が溶解しているか、または調和した関係を保ちながら中間物として存在し、一定の震動率に直(ただ)ちに感応し、やがて凝縮して形態を取る。個人が全人類と協力して適正な想念震動を起こすと、諸元素はその型の中に殺到して型を満たすほかないのである。これは絶対的な法則であって、誰もその動きを喰(く)い止めることはできない。
よろしいか諸君、オルガンを非常な低音で弾いているとしよう、オルガンの音をだんだん下げていって、遂にはもう聞こえなくなるようにしよう。しかし、わたしたちがそれまでに音から受けた感じは、嫋々(じょうじょう)【しなやかなさま。たおやかなさま】としてまだ尾を引いている。聞こえなくはなっても、バイブレーションは依然として続いている。逆に今度はこの音を全音階に亘(わた)ってどんどん上げて行くと、やはり又、しまいには聞こえなくなる。それでも情感はたゆたい(揺蕩い)(ゆらゆらと揺れ動いて定まらない)、高いバイブレーションが実際には依然として続いている。音の影響が肉の耳の範囲を超えても、その影響はいずれも消えないことがこれでもわかる。
これがわれわれのいう『神』である。肉が支配を失ったとき、霊が支配する、のみならず、その支配は一層決定的である。それは単なる肉よりは遥(はる)かに広域のバイブレーションを持ち、想念には遥かに感応(かんのう)し易(やす)く、またその支配を受け易い。想念は肉体よりお、遥かに霊の方に密接につながり、整合(せいごう)しているからである。
肉は体に限られ、体より外に拡がることも、離れることもできない。又、全く体の行動にのみ限定され、その反応にはつながらない。体の反応にまで及んだ時、それを霊と定義すれば、われわれは霊である。肉体が如何に限定されたものであるかが、これでも分かるであろう。
霊は、いわゆる肉体のあらゆる原子に浸透しているだけでなく、個体・気体のいかんを問わず、あらゆる質料の最微なところまでも浸透している。事実、それは力であり、その中で原型がつくられ、質料がそれを満たして、種々様々(しゅしゅさまざま)の形態となって出てくるのである。それ以外には質料が形を取る道はない。人間は、質料が形造るこれらのもろもろの形態の投影者・調整者にすぎないのである。ここでしばらく本筋から離れて、説明させてもらうことにしよう。われわれの宇宙の中心に、燦然(さんぜん)と輝きを放っている大いなる太陽がある。地平線が次第に後退し、われわれの視界に新しき日が現われた時、新しき時代、新しき復活祭が生まれる。
われわれのいわゆる宇宙は、或る一つの中心太陽を公転する同様の九十一の宇宙の一つにしか過ぎない。この中心太陽の大きさは、全九十一の宇宙の全塊量(マス)の九十一万倍もある完全なる秩序の下(もと)にその周囲を運行している。九十一の宇宙も中心太陽と比較すれば、あなた方のいわゆる原子核、即(すなわ)ち原子という中心太陽の周囲を回転している微少(びしょう)な粒子のようなものにしか過ぎない、それ程にこの中心太陽は巨大なのである。この巨大なる中心太陽をこの宇宙が公転するには二万六千八百年かかる。それは北極星の才差(Precession)に正確に合致して運行する。ありとしあらゆるものを支配している大いなる能動的、聖なる力の存在を、これでもあなた方は疑うのであろうか。さて、観察に戻ろう。
よく観るがよい。映像が今、現れて来る。そのフィルムには、白い円球状の太陽の画像がある。赤い点が一つ、白球の上に出来てくる。もっとよく観るがよい。赤い円球から純白の光が一小点となってさっと閃(ひらめ)いたであろう。それはただの光条ではない。それは純粋な光の走る一点、これから生れ出(い)づべきものを内包(ないほう)して放出された生命の閃光(せんこう)である。あなた達には光の一小点にしか過ぎないが、近づいて見ることのできる者にとっては巨大なるものである。あなたたちには只、珍(めずら)しいだけであろう。ごく近い将来に、あなた達は視力を補助する器具を通して、これらをすべて見ることになるであろう。そして、それは人類にさらに多くの神秘を啓示(けいじ)するであろう。
この大中心太陽は脈動し鼓動しながら、しかも相(あい)調和している放射エネルギーを数百万年の間、自分自身に惹(ひ)きつけてきた。このエネルギーは、いずれ自然に消散(しょうさん)するか、爆発して散ってしまうか、しなければならない。大いなる雲状のガス塊(かい)が太陽から爆発出したのを観るがよい。あなた達は今、これの映像の中に海王星の誕生を見たのである。今、親(おや)太陽から巨大なる力で放出だれた微少(びしょう)宇宙粒子乃至(ないし)、原子ともいうべき巨大なる魂が海王星である。
モヤモヤとして形も定かではないが、最後の排出が起こる前に現われた光点(こうてん)が中央太陽で、それは親(おや)太陽から飛び出した大きな粒子は勿論(もちろん)、最微少の分子に至るまで惹きつけれ結合する力がある。
こういえば、あなたたちがまっ先に考えるのは、まず爆発が起こって太陽の粒子が空間に射(う)ち出されたということであろう。しかし、一寸(ちょっと)待ちなさい、実際の現象をよく観察して見るがよい、その粒子やガスがしっかり結びつき、明確な球形となるのは、如何(いか)なる理由によるものであるか。それは、その背後にあって完全なる秩序と調和のうちにそれを導いている英知ある『法則』のためである。これが偶然ではなく法則、決して謬(あやまる)ことのない法則によって支配され、完全なる秩序と順序に則(のっと)っている証拠である。
この光点(こうてん)、すなわち中核が中心閃光(せんこう)、すなわち中心である子であり、全人類がその周囲を回転する人類のキリストである。これは明確なる『霊』の力である。この『法則』は人類の全成員に働く。中心閃光は純白の光点(こうてん)で、それは即(すなわ)ち原初の細胞を貫(つらぬ)くキリストである。その後、この細胞は拡がり分裂したものから生まれ出て、人類が愛と呼ぶ共存結合力によって結ばれている他の細胞に、この細胞はその光を与える。
これらの分子は丁度(ちょうど)、母が子を抱いて育てるように、栄養を与えられ、また結ばれる。事実、それは太陽の子であり、同時に自分自身の中に中心太陽の核を持っている。この中核とはそれを生み出した親の肖像である。親から出てくるや否や、この中心太陽(中核)もその生命と生長(せいちょう)とに必要な周囲の振動する放射エネルギーを引き寄せ、整合し、保持する力を持つようになり、最後の凝縮を遂(と)げて海王星、即(すなわ)ち現在のわれわれの宇宙の最も遠くに延(の)びた軌道を走る最古の惑星となる。
海王星が最初に誕生し、中央太陽(中核)が主としてその親なる太陽からエネルギーを自分に引き寄せると、エネルギーが整合して原子の形をとなるということは、その誕生前に既(すで)に描かれていた原型に合わして姿を取り始めたことに他ならない。この原始海王星(かいおうせい)はいわゆる揺藍(ようらん)の軌道、即(すなわ)ち水星が今日占(し)めている軌道の内側にあたる軌道を占めていたのである。この軌道内で、子(こ)惑星(原始海王星)は親に一層近いだけによりうまくその質料を引き寄せることができるし、そうするにつれて凝縮して、形を成し始めたのである。科学的元素は雲状の中の単なるガス蒸気のままではいないで分離と結合とを開始した。このような化学変化から生じた個体が凝縮しだし、巨大な熱と圧力との下に岩石が形成し始めた。この半液体物質が更に供給するにつれて、表面が冷却しだして殻(から)が形づくられ、更に冷却過程と外側の粒子の同化(どうか)と増加とのために、殻が一層(いっそう)重くなり厚くなる。この殻が、回転する固まりを支えるだけの強さになると、それは中心に半液体の溶(と)けた集塊(しゅうかい)を持つ原始の岩石(がんせき)構造となる。やがてその結果生じたガスと蒸気から、水がこれらの結合として現われ始める。初め星雲(せいうん)だったものが、今や惑星の名にふさわしいものとなったのである。今や生命を維持しうる状態をめざして進化が速やかに進行する。しかし猶(なお)、幾劫期(いくごうき)ものあいだ外部から次々と粒子をその構成体(こうせいたい)に加え続けなければならない。中央集塊(mass)の冷却が続き、気圏(きけん)や化学的状態や表面が有機生命体を生み出し、且(か)つ維持する用意が整(ととの)うように完成に近づいてゆく。
ここで親(おや)太陽はもう一つの原子に相当するものを生み始める、その排出が終わったときが即(すなわ)ち天王星の誕生である。この誕生といっしょに特別の力が出て、それが海王星をその揺籃(ゆりかご)【物事が発展する初めの時期】、つまりやや小さな軌道からもっと大きな軌道に弾(はじ)き出したのである。しかし海王星は、天王星の雲状(くもじょう)の構造が一人前の惑星となるまで、親(おや)から栄養が受けられるように、この新生児たる天王星に揺籃(ゆりかご)の軌道を明けてやるために、今や水星の占めている軌道をとらされたのである。〔原始海王星は現在の水星の内側の軌道で育ち、次に原始天王星が生まれると、自分の軌道をそれにゆずり、自分はその外側、即(すなわ)ち現在の水星の軌道に移ったのである。かくして新惑星が生まれる毎に旧惑星は親(おや)太陽より遠い軌道に移って行く。― 訳者註〕
再(ふたた)び這般(しゃはん)【これら】の情況が落着き、長い間順調が続く。最初の出生児(しゅっせいじ)たる海王星は生長(せいちょう)し、生命を維持し得る状態に近づいて来ている。事実、その濁(にご)った塩気(しおけ)のある水、即(すなわ)ち内海(うちうみ)にはアメーバの形のものが現われ始めている。やがて別の原子の誕生の用意が整(ととの)い、土星が生れる。この排出のときに出た特別の力が、天王星をその揺籠(ゆりかご)の軌道から弾(はじ)き出し、更(さら)に海王星をその軌道から追い出した(その後を今の金星が占めている)わけである。
海王星は今や十分に冷却し、その表面は生命を支(ささ)え得る段階にまで発達した。人間生命という要素が、人体の維持及び出現に必要な選ばれたアメーバに結びつき、更(さら)に、今日の地球が享受(きょうじゅ)している人間生命の維持と栄養とに適する状態に達したのは、この惑星においてこの軌道を占めたときである。
こうして、動物アメーバではなく人間アメーバ、即(すなわ)ち特別に選ばれた型と性格をそなえ、進化の過程を短縮し得るし、事実短縮した知性を持ったアメーバである原初の人類、が出現したのである。この惑星における状況は、優秀なる人間の発展にとっては申し分ないもので、その発展は急速に進んでいった。
この段階では低級な動物機構のごときは存在しなかったので、動物生活はまだ出現(しゅつげん)していなかった。この天体は、宇宙質料乃至(ないし)、水様質料から直接自給のできる完全なる人種へと、急速に発展していった優秀なる人類によって占められた。そういうわけで、彼らはこの惑星上の神々とも言える。今日の伝説や神話の多くはこの偉大なる人間たちに始まり、また彼らをめぐって造られているのである。彼らは全く彼らを生み出した原理通(どお)りの人間であった。美と完全とを表現し得(え)る能力を持ち、この能力によって自分たちの周囲を完全美麗(びれい)なる状態で囲繞(いじょう)【まわりを取り囲む】しはじめた。事実、彼らはこの惑星を美と完全との天国に造りあげたのである。
この種族、一切の自然力を絶対的に支配することによって、この完全なる状態を永久に維持することに定められていた。従って彼らが何かを希望して念(ねん)ずれば、直(ただ)ちにそれは実現したものである。
ところが時日(じじつ)がたつにつれて、為(な)すべきことをしなかったり、同僚より抜きん出ようとしたりして、利己主義の様子(ようす)が出始めた。このような状態から集団の色分(いろわ)けが生まれ、それはやがて分離の原因となる我利(がり)と貪欲とをもたらした。奉仕と進歩に費(つい)やすべき時間が、喧嘩や口論に浪費されるようになった。自分たちの生命の淵源(えんげん)に従い通すべきであるのに、彼らは意見を対立させて大きく離反(りはん)し、遂(つい)にごく一部の人々を除(のぞ)いては、全部が崇高なるものを失ってしまった。この少数以外の全部が自分達の安全や保護などを考えなかったため、自分達の惑星の周囲に渦巻(うずまき)を生ぜしめてしまった。
聖なる惑星群の上に聖なる完全な世界を成就することを一旦可能にした完全なる神意(しんい)に従い通すことをせず、途中でこの神意に背(そむ)いたがために、次の爆発を誘発してしまった。その時の爆発の力が余りにも巨大で、星雲が凝縮して後に出来た惑星は、それまでに誕生したものよりも大きなものであった。こうして木星が生れたのである。この時に出た過剰のエネルギーが余りにも巨大であったため土星を始めの軌道より跳ね飛ばして、現在水星の占めている軌道に移してしまった。この爆発が余りにも強烈で太陽系を一杯にしたため、非常に多くの小遊星群(しょうゆうせいぐん)ができて土星の周囲に整列してしまったが、土星とは極(きょく)を異(こと)にするために土星と合体するわけにもいかなかった。こうしてこの星群は独立し、他に取るべき唯一(ゆいいつ)の道はアステロイド帯(小惑星の軌道が集中している領域を指す)として土星の周囲に整列することであった。そういうわけでこのアステロイドは土星の環(わ)といわれ、その中には惑星大のものも幾つか存在する。
この爆発力は、あの大きな美しい海王星を、現在地球が占めている軌道に弾(はじ)き飛ばしてしまった。その華麗(かれい)さも、偉大なる住民達も、少数を除(のぞ)いては悉(ことごと)く吹き飛ばされてしまったのである。幸(さいわ)いにも護(まも)り残された者は、その聖なる遺伝を決して放棄しなかった。彼らの体は特殊の構成となっていたため、「霊園」(Spirit Sphere)の放射能の中に安全を求めることができたのである。この『霊園』は、現在でも存在している九十一の宇宙を囲繞(いじょう)し、貫通している。
このようにして彼らは終始一貫、その本性と英知とを持続し且(か)つ顕現(けんげん)しつづけることができたのであり、今後も決して消滅することはないだろう。われわれが今日生きているのもこれらの理念のおかげである。わたしたちはこれらの偉大なる方々の血筋を受けているのである。この方々が人類の根源種族であって、人類の理念と人間の神性はこの方々によって維持されたのである。木星という星雲が一個の惑星としての形態をとるのに必要な時間が、それからのち幾劫期(いくこうき)となく続いた。図体(ずうたい)が余(あま)りにも大きいため、それは今でも猶(なお)、ほんの僅(わず)かしか冷却していない。
時は猶(なお)もすみやかに過ぎ、太陽は今や第五の星雲(せいうん)を生み出す用意が整(ととの)った。こうして赤い血の惑星、即(すなわ)ち、火星が出現した。この排出は完全に行われたために、わたしたちは例の強大な木星にある現象が起こりつつあるのを見ることができる。木星の側(そば)に巨大な赤い点が一つ、突然ポツリと現われ、木星は自分自身の大部分を排出する、即ち月という衛星を生み出したのである。この二度の排出(はいしゅつ)の際に起きた力が巨大なため、さすがの巨人木星も最初の軌道から投げ出されて、火星のために明け渡すことになった。巨大な木星が新軌道を占(し)めても、回転している星雲状のものは、誕生時に弾き出された粒子の大きな集塊(しゅうかい)【マス】をどうしても引き寄せることができない。そのため、この粒子たちは余りにも遠くに跳(は)ね飛ばされたため海王星、天王星、土星、火星の影響下に来ることになった。しかし極(きょく)を異(こと)にするために、これらの惑星に同化(どうか)されることもできず。惑星としての極(きょく)を持たない別々の遊星群(ゆうせいぐん)【アステロイド】とはなったが、惑星としての地位を占(し)めて中央太陽の周囲を調和(ちょうわ)整合(せいごう)して公転(こうてん)することはできない。従(したが)ってそれは何らその運動に律動(りつどう)【周期的な運動】もなく、恐るべき速度で飛ぶ巨大な流星群(りゅうせいぐん)となって空間を飛行し、遂(つい)に他の惑星と衝突してその表面にはまり込(こ)むか、衝突時の衝撃のために砕(くだ)け散るかのいずれかである。
また空間を物狂(ものぐる)いのように飛ぶときの微少(びしょう)な粒子は飛び散(ち)り、次第に液状の塊(かたまり)【マス】となって再び中央太陽に吸収、同化され、他の惑星、即(すなわ)ち原子を生み出すときの星雲となり再(ふたた)び出て行くのである。
さて今度は、最後にわれわれの地球となった星雲の誕生となる。火星が、生まれ出たときの軌道から投げ出されて、地球がそのあとを占(し)める。こういう風にして、惑星は悉(ことごと)くその場所を新しく生まれた子に明け渡すために、別の軌道に送りこまれる。金星もこうして生まれたのである。同様に、また地球もその他のすべての惑星や原子も、新しく生れ出る惑星や原子たちのために揺籃(ようらん)を明け渡すべく、常に広がり行く軌道に投げ込まれる。かくしてまた水星が生れる、これも他の惑星が原子を他の拡がった軌道に追い込むことによって生まれるのである。こうして今日の天文学の知識で肉眼に映(えい)ずる八個を全体とする惑星集団が完結されたのである。
しかし、本当は九つある。というのは、揺籃(ようらん)軌道には水星が乗っていないからである。それは、最後の星雲、即(すなわ)ち子が占めるが、その星雲はまだ肉眼では見える程(ほど)には凝固成形していない。
それでもしかし、それはそこに実存するし、その影響も感じられる。かくしてわれわれの地球を一部とするこの宇宙は、九つの惑星、乃至(ないし)原子群と、中心核である太陽の周囲を数学的精確(せいかく)さで運行している九つの軌道とを抱合(ほうごう)する。あなた達はこの天地創造が秩序正しく継起(けいき)して実現して行く姿を今、目(ま)のあたりに見たのである。
太陽から最も遠く離れて、一番大きな軌道をもつ惑星の海王星に、今何かが起こりつつある。この惑星は既(すで)に成熟し速度も限界に来ている。光もいわば一杯に『充電』し、一個の太陽として出直(でなお)すまでになっている。新しい星雲が形成し始めているし、太陽も第十番目の星雲を生み出すまでになっていて、今や海王星は衰(おとろ)えつつある。この星雲の排出が起こらないうちに、海王星はすでに中心太陽を公転する限界速度に達してしまっている。いずれ空間の中に飛び離れて爆発し、やがて液状に還(かえ)り、ついで再(ふたた)び中心太陽に吸収されてそのエネルギーを強化し、惑星や原子を更(さら)に生み出す素(もと)となるであろう。わたしたちの地球を一部とするこの宇宙には、中心太陽の周囲を一度に公転する惑星、言いかえれば原子たちは九(ここの)つしか存在し得ない。かくしてそれは、生誕、凝固、拡張、現界速度への到達、空間への飛去(とびさり)、爆発、崩壊、そして新誕生実現のための太陽による再同化(どうか)の絶えざる繰り返しである。
また、太陽は液状の状態から、再(ふたた)び液状の状態に還元するために排出したものを、再取込みしている。斯(か)くて再生から新誕生への連続的繰り返しである。このような過程がなければ、九十一の宇宙群の中心太陽もその他の諸宇宙の中心太陽たちも遥(はる)か昔に消耗し、一切は全質料のふるさとである『無限なるもの』に還元(かんげん)していたであろう。
すべての放射物や空間の中に遍満(へんまん)している『英智』を形成せしめ、前進への出発をなさしめるのである。太陽、乃至(ないし)、中核は決して古くもならなければ、死にもしなし。それは受け取り、吸収し、保持し、整合し、しかるのちに原子を生み出す、しかし決して減らない。なぜなら、それは自分の出しつつあるものを永久に受け取って自分自身の中に吸収しているからである。かくして再生と再誕とが四六時中(しろくじちゅう)つづいている。宇宙群は形成され、拡大し、その受け取ったものを還元しつつある。低きから高きへ、しかして、より高き次元への進化の連続である。
われわれの地球と、その九(ここの)つの惑星、言いかえれば原子群、とからなる銀河を一部とする九十一の宇宙群から成(な)る銀河は、実は更(さら)に広大なる九十一の銀河群の中の一つにしかすぎず、このより広大なる銀河群は、更にまた巨大なる中心核、即(すなわ)ち別の太陽を公転しており、この核太陽は先に述べた第一の銀河の九万一千倍もの質量を持っている。このような状態が次々とつづき、九十一回、ほとんど際限なくつづいて、その全体が無限の『大宇宙』、あなた方のいう『天の河』を含む銀河群を構成しているのである。この『宇宙』はよく『原子熱線』(Atomic Heat Ray)といわれて、太陽熱の根源なのである。
これはあなたたちの太陽が所属している星群の雲ではない。それはさきに述(の)べた巨大なる宇宙の中心太陽、すなわち核から生まれて排出された一個の星雲である。この星雲の中にあるように見える太陽は、実は太陽から出る光線の一部しかすぎない。これらの特定の光線(rays)は塊(マス)の中に入ってゆくとき或る角度で曲げられ、反射して、この曲がり歪(ゆが)んだ光線が太陽の映像を直視(ちょくし)していると思い込んでしまっている。同様に多くの他の惑星群や原子群も、同様の現象によって歪曲(わいきょく)されている。従ってそれが沢山あるように見えるが、実は比較的少ししかないのである。本当の数字が全部わかるのは、数百万年後のことであろう。
この画像をよく観察すれば、これらの星雲またはその太陽は、円板状ではなく丁度(ちょうど)わたしたちの地球のように、両極で平たくなっている球形であることが分かろう。あなた方は実は、大きな平たくなった極域(きょくいき)を見ているのである。
この大いなる宇宙太陽の巨大なる塊(マス)が光線に実に深刻なる影響を及ぼすために、光線は完全に『大宇宙』を廻(まわ)って反射する。そして又、光線は大原子線、或(あるい)は大宇宙線(Atomic or cosmic Rays)に接触することによって、決定的に影響を受け且つ反射されて、その粒子が広域にわたって放出されるので、一集団から幾千もの惑星群や星群の映像が投映されるのである。かくして幾千もの惑星群や星群がその位置を錯覚され、更にまた数千もの映像が反射されるのである。われわれが宇宙を見通すときに見える映像は両側面を顕わしているのであって、われわれは幾億年前に発光して大宇宙を完全に一巡(いちじゅん)した光を見ているのである。かくしてわれわれは、一つではなくて二つの像を見ているのである。或る一つの像は数百万年前の惑星の姿であり、今一つは数億年前のそれである。これが巨大なるすべての『大宇宙』組織全体にわたって起こっている。だから多くの場合、われわれは実際には大いなる過去を見ていると同時に、同様の方法で未来をもまた見ることができるのである。
想念、乃至、心臓の脈動(みゃくどう)が数十億サイクルに増幅されて霊の命令を伝えるように、全宇宙を統御している不可視のつながりがある。これらの偉大な脈動する衝動(インパルス)または心臓の拍動(スロップ)に相当するものが『大宇宙』を取り巻いている液の様態(ようたい)に遍満(へんまん)している英知を通じて伝わってゆく。この英知が大宇宙の霊に相当する。全大宇宙のあらゆる原子に生命の流れを送り込んで、完全なる秩序と律動とを以て動かしているのは、これらの巨大なる心臓拍動(はくどう)なのである。この無辺際(むへんさい)【広大で果てのないこと】の大宇宙には、いかなる病める、乃至(ないし)、不調和の細胞もありえない。なぜなら、そのようなものが一個だにあれば、一切を滅茶滅茶にしてしまうからである。そのときは一時、渾沌(こんとん)となるであろう。これは不調和(ふちょうわ)な想念(そうねん)によって妨げられたときの人間の有機体にもあてはまる。『神(Godhead)〔原義は(神の頭)―訳者註〕というコトバが自然に生まれ出たのは、この中央の統御(とうぎょ)からである。人間一人一人の心臓の鼓動(こどう)は、小規模ではあるがこの大宇宙の心臓脈動に相当する。人間は全水源(比喩―訳者註)を統制する英智より出たものであり、またその写しである。彼は『根源』の共存者であり、一切をかの大いなる水源地より抽(ひ)き出している。恰(あた)かも、大中心太陽が同じ源泉(げんせん)より抽き出しているが如(ごと)くに。しかも猶(なお)、人間の場在りは、中心太陽よりもその抽(ひ)き出す度合(どあい)は大きい、なぜなら、彼は源泉を支配している大英智と一体であるからである。
人間一人一人は、大いなる全宇宙群にくらべれば極微(きょくび)ではあるが、それ自身よく組織された聖(せい)なる宇宙である。しかし全人類を構成するものとしての人間が、その神性を認めて神性に伴う責任を取るならば、極微に見える彼が全宇宙に取って必要なのである。なぜなら、人間は全宇宙群についての神の全プラン以前に在り、且つ同プラン全部を統制している偉大なる英智に属するからである。かくて、よしや全宇宙群が崩壊するとしても、人間は光という放射から始まって最も低い物質体に至るまでの、水様態中のあらゆる放射物に遍満貫通している原始の英智と完全に協力することにより、全宇宙を再建することも出来るのである。よしんばこのような破局が起ころうとも、人間は、破壊というのが如きものの一切存在しない原始の英智に復帰する力を有するのみならず、実にその力そのものである。破局の後、静穏(せいおん)が再び支配し調和が復活したとき、人間自身がいつ原始英智に復帰し、原始の完全さを現出(げんしゅつ)すべく宇宙生成の全過程を再び進行させるのに幾兆年もの年月がかかるのは、もはや彼の問題とするところではない。ここにおいては、人は無限者と一体のままでいて、宇宙群の誕生に時の熟(じゅく)するのを泰然(たいぜん)として待つのである。やがて時来れば、創造神がより完全にしてより永続する状態を造り成すに当り、前の経験をその意識の中に保持するが故(ゆえ)に、彼は創造神のよき助け手、以前にもまさるよき助け手となる。その際、彼は如何(いか)なる形あるものにもまさって明確なるが故(ゆえ)に、彼は決して失敗することは出来ない。彼は地平には、彼の意識には、失敗なる文字は記されていないのである。
最微少(さいびしょう)なるもの(人間)が全有形体中の無限なるものとなる。賢者が、『吾は不死、不老、久遠なり』『生命及び光の中の一物として吾ならざるはなし』と言ったが、その時の賢者は、この未来を眺望しているのである。これこそがまことの神性である。昇天こそ、まことに彼人間のものである」