イニシエーション エリザベス・ハイチ著 

 唯物的な生き方をしていると、神性の力を奪われてしまう。物質世界の法則にすっかり従属し、神性を顕現することができない。神性は三次元世界の二大要素である時間と空間という支柱にはりつけにされ、物質の十字架の上で死を遂(と)げる。だがしかし、この死はけっして終焉ではない。どん底まで墜ちた意識の中でも、聖なる創造的な<自己>はいつの日か復活し、同じ苦しみにあえぐ人々を救う。物にとりつかれ、無知ゆえに高次の<自己>という内在する神をはりつけにする者は、たえまない生き地獄のような苦しみを味わいつづける。この罪に手を染めたことで神とともに自分自身をも磔刑(たっけい)にしてしまうのだ。しかしこの痛みこそが彼の中に神が内在(ないざい)していたことに気づき、みずからの救済を経験する。地のはてまで散(ち)っていた神聖な種族たちは、こうした十字架やT字型のシンボルをたずさえ、その中に隠される真理を人々に伝えようとした。シンボルは石や金属、あるいは粘土に刻まれたものなど材質も大きさもさまざまで、いずれ世界各地に見いだされるだろう。ほとんどの人はそれらを磔刑(たっけい)になった人物の象徴だと信じるが、ほんの一握りの人だけが、じつはそれは時間と空間という二本の支柱にはりつけにされた、神なる創造原理の象徴であることに気づくだろう。

 その夜、私はさっそく友人から借りてきた本を読もうと、ベッドにゆっくりと横になってページを開いた。

すると驚いたことに、それは私が選んだ本ではなかった。私は本をひっくり返して表紙のタイトルを確かめた。おかしい・・・友人の本棚でこのタイトルを目にした憶えはあるが、私が読みたいと思って手にとったのは別の本だった。

 その本は地球の起源と同じくらい古い、ある秘密の霊的集団について書かれたものだった。目に見える形でのメンバーシップといった外側の枠組みはないが、その集団はつねに、そうとも知らずに接触してくる人々を新参者として受け入れている。この「接触」というのは、個人としての人生を完全に放棄し、他者の苦しみを癒すことに一生をささげる状態にまで人が進化したときに、はじめて起こる。人がこの決意に達したことがわかると、秘密の集団のメンバーがその人に霊的な接触をこころみる。というよりむしろ、個人としての自分を明け渡す決意をして普遍的な愛に達した人は、この秘密の霊的集団メンバー間に流れる波動に自動的に反応するのだ。その人はまず自分自身の内側に、この決意の困難と危険と試練について警告する、霊的な指導者やガイドの声を聞くことになる。それでも決心が変わらなければ、その人は人類をカオスから救済するために存在している「集団」のメンバーとして受け入れられる。

すると、本人はなにも知らないままで試験期間に入る。これは受け入れと同時に始まり、新参者は7年という長い間、完全に自己責任において単独で行動することになる。この期間中、新参者はどれほど求め望んでも、集団とはいっさい接触することができない。そんななかで次々に課せられる、あらゆる試練に合格しなければならない。試練のうち7つは人の徳にかかわるもので、①性欲②虚栄心③怒り④食欲⑤妬み⑥神経質からの解放⑦外からの影響に対する耐性が試される。

誰の手も借りずに試練のすべてに合格し、7年たっても決意にゆるぎないことがわかると、その人の活動を開始する準備ができたと見なされ、集団のメンバーとして正式に受け入れられる。そしてこのことは、まさにその日に明らかな偶然の一致あるいは符号によって本人に示される。それ以降、新参者は訓練を受けながら、同時に特定の任務を与えられる。最初は簡単なことだが、十分にやり遂げると次はより困難な任務というふうに、だんだん高度になってゆく。任務の内容はじつにさまざまだ。新参者によっては表に出て働く者もいるし、裏方で働く人もいる。乞食になって辺境の地をさすらう人もいれば、大富豪になる人もいる。どんな場合でも自分の務めを果たさなければならない。

 なかには、集団のメンバーどうしが見かけの上で対立しあう務めにつくこともある。そんなときでも、互いに同じ集団に属していることは絶対に明かしてはならない。あるときは世界に名を馳せて全盛期を謳歌し、あるときは落ちぶれてみじめな極貧生活にあえぐかもしれない。

 だが、すべての任務は、ただ大いなる計画の共働者として、完全に自発的かつ非個人的に果たされなくてはならない。そして任務に当たっては、自分のすべての行動に自分で責任をとる必要がある。与えられた任務といえども、全責任は自分にあることはっきり認識しつつ、それをどう展開させていくかは自分自身で考えなくてはならないのだ。その責任は上にいくほど重くなる。自分の行動や仕事の責任をとることを拒否したり、ほかのメンバーに転嫁しようとしたり、あるいは自分の仕事をみずから選んでいることを認めず集団のせいにしたり、自分はただ使われているにすぎないとふるまったりすれば、背信者と見なされ、ただちに集団との接触を失うことになる。しかし、本人は集団から接触を断たれたことに気づかないで何年も集団の共働者だと信じて仕事をつづけている場合がある。そういう人は、ほかのメンバーの試金石とされることもある。つまり、新参者が偽りの預言者を信じて従ってしまわないか、聞いた言葉を鵜呑みにせず、自分で吟味して納得したものだけを受け入れているかなど、自主的に考えて自分で判断できるまで進化しているかを見定めるための試金石だ。偽りの預言者に従う者はまだ心眼が開いていないゆえに、同じように心眼の閉じた者に導かれてしまい、どちらも道を踏みはずすことになる。

集団のメンバーは、ゆるぎなく自立し、感化されることのない人にかぎられる。ただ服従していれば楽だから、見返りがほしいから、「天国」に行きたいから、あるいは天罰や地獄が怖いからといった理由で、良いことをし、悪いことをしないようであってはならない。この集団のメンバーは生死にかかわるような窮地でも、自分のもっとも深い確信にもとづいて行動しなければならない。なぜなら、彼らは心の奥で、自分自身のもっとも深い確信として集団のメッセージを聞くからだ。