ヒマラヤ聖者生活探求

第十五章 神の波動と蘇(よみがえ)りの原理    第三巻
エスが「ウェルドンが神秘に打たれた様子(ようす)が皆にも分かったね」と切り出してから、語り出された。
 「これからあなたたちにお話をするが、よくそれを自分自身に言(い)い聞(き)かせて欲しい。もしあなたたちがこれからいうことを自分でもその通(とお)りに言(い)うか、又はそれを自分自身の一部(いちぶ)とするならば、もうそのほかのものは何もいらないのである。しかし、これからいうことを「公式」にしてしまってはいけない。学習者が自分の思念(しねん)を神性原理に一致させるために、或(あるい)はよくいわれるように、『思念(しねん)を一点(いってん)に集中するように訓練するため』なら使ってもよろしい。わたしたちは神という言葉を出来るだけ度々(たびたび)、いや、幾度でも使用する。
 あなたたちが、神を自分の内に住み、自分の内(うち)を貫流(かんりゅう)する最高の原理であると知った上で、神ということばを度々(たびたび)使えば使うほど、大いなる利益をそれから受けるであろう。
 繰り返して申せば、わたしたちの考えは、『神ということばは、幾ら言ったり使ったりしても、過ぎるということはない』ということである。
 神を、自分を貫流(かんりゅう)する創造原理と観(かん)じ、それに一心を集中し、これにエネルギーを与えて送り出し、もっと強力な影響力をこれに与えることである。それが常にあなたたちの中を貫流(かんりゅう)しているのは事実なのであるから、あなたたちの実存(じつぞん)の全力でこれを外に押し出し送り出すことによって、より大きな推進力を与えることができる。人間の体は、もっと大きな業(わざ)をなし、この力をもっと大きな形で送り出すために、この力を変圧して推進力を増加させる媒体なのである。そうすれば数百万もの人達がその放射を増幅して送り出すようになり、この創造原理に更(さら)に遥(はる)かに大きな力が加わるのである。しかし一人の人間でも、完全に支配力をもって立ち現(あらわ)れたならば世界を支配できるのであるから、これらの数百万人もの人なら一体どのようなことが成し遂げられるか、お分かりになるであろう。
 神とは自分の中にあったのだと、今あなたたちは悟得(ごとく)しつつある、その内在の原理でることを知って、神の名を使用すれば使用する程(ほど)、あなたたちの体のバイブレーションはそれだけ高くなる。
 すると、これらのバイブレーションはお互いに関係し合い、神性なるバイブレーション(この神性なるバイブレーションを神ともいい、又神はこの神性なるバイブレーションを放射(ほうしゃ)しているのである)に感心(かんしん)する。一度だけでも意識しながら神を称(とな)えれば、あなたたちの体はその前までに出していたバイブレーションには決して戻(もど)らないであろう。このことを念頭(ねんとう)において、わたしの言うことを自分のものにして貰(もら)いたい。よければ、それをあなたたち自身のことばで言い表(あらわ)して欲しい。そうすれば、それはあなたたちから出たのであって、外部から出たものではないのである。暫(しば)らく試(ため)しにその通りやってみて、どういうことになるか見てみるがよい。神のことを考える度(たび)毎(ごと)に、あなたたち自身が神の聖(せい)なる計画の中心であることを思い出すがよい。しかし、これはわたしの言うことばではなく、神のキリスト(神我)たるあなたたちのことばなのである。イエスなる人間は光即(すなわ)ち純粋の生命、即ちまた神を現わしたるが故(ゆえ)にキリストとなったことを、よく肝に銘ずるがよい。われを貫(つらぬ)きて流れる吾(わ)が父なる神、聖(せい)なる原理はすべてのすべてである。神であるすべては、また真我(われ)(I AM)である。われは神のキリスト、神人(しんじん)である。
 吾(わ)が父なる神のすべては、これ神人の使役(しえき)に供(きょう)するためにある。かくて吾(われ)=真(しん)我(が)(I AM)は、すべての質料を使役(しえき)する資格を与えられているのである。事実、吾(わ)が父なる神は一切の質料を、神人に無限の枡(ます)を以(もっ)て押しつけているのである。
 神(かみ)原理(げんり)こそ吾(わ)が父、吾(われ)=真(しん)我(が)(I AM)は神のキリスト、神とわれとは完全に一体である。神のもち給(たま)うものは又、神のキリストのものである。
 神ということばを取り上げてみよう。このことばがかくも大きな力を持つのは何故(なぜ)であるか。それはこのことばが発(はっ)せられる時に放出(ほうしゅつ)されるバイブレーション(波動)のためである。それは文字通り最高であり、大宇宙そのものであり、最も効力高きバイブレーションである。それらは宇宙線に乗って来て、最高の放射線の場(ば)を構成する。この場はすべてを包容(ほうよう)し、すべてを貫通(かんつう)し、すべてに存在し、すべての質料を支配する。それはすべてのエネルギーの支配元素であり、このバイブレーションが光(ひかり)と生命とを運ぶ機関である。この放射線の背後(はいご)にあって支配している英(えい)智(ち)がわれわれの神というもので、その放射線を通じて英(えい)智(ち)はすべてのものに遍満(へんまん)する。この放射線の場より光と生命とが発生する。人間がこれを受けると、この二つが体の中で結合(けつごう)されて一(ひと)つとなる。すると、彼の体は直(ただ)ちに光(ひかり)のバイブレーションに感応し、かくて彼は神のバイブレーションとなり、彼の体は光(ひかり)を放射する。神としての悟りを得た人は、低い波動の場(ば)で動いている人の目には映(えい)じないことがしばしばある。以上が神という言葉の強大なる理由である。
 この神という生命を支(ささ)えることばのおかげで、あなたたちの聖書はあのような影響力と長命(ちょうめい)とを維持しているのである。この偉大なる書物の中で、このことばが書かれ語られている頻度(ひんど)について考えて見るがよい。文字にせよ、言葉にせよ、神という一(ひと)つ一(ひと)つのことばより出る種々(しゅしゅ)様々(さまざま)の光の放射線を、その故(ゆえ)にまた生命とエネルギーとの放射線を見るがよい。一つ一つの神ということばが、それを語り、聞き、または見るすべての人々の魂そのものに、神のバイブレーションをもたらす。魂はこの波動に感応する故(ゆえ)に、その高揚(こうよう)に相応(そうおう)してその書(しょ)もまた高められ揚(あ)げられる。かくしてその書は、生命と力と不滅とを与えられるのである。もとはといえば、神という言葉のおかげである。かくて、書物とは霊的意味においては神の言葉であって、書物の字義(じぎ)(文字)の通りではないことがいえる。
 聖書の真の霊的価値には注意を払(はら)わないで、文字通りに解釈する人が余(あま)りにも多すぎる。しかし前者のような自覚(じかく)がなくても、左程(さほど)問題ではない。何故(なぜ)ならは、霊的バイブレーションはそういう無自覚な考え方の惹(ひ)き起こすバイブレーションを消してしまうからである。
 そういう人でも、ひとたび神と口に出して言えば、そのバイブレーションは彼らの理解の欠除(けつじょ)を補(おぎな)っても尚(なお)余(あま)りある程に、遥かに高いのである。これは聖書の蘇(よみがえ)りである。しかし、それは聖書を嘲笑(ちょうしょう)し悪評する者にとっては躓(つまず)きの石となった。神という言葉が悪という言葉に取って替(か)わればそれを完全に征服する理由を、無神論者は今以(もっ)て説明出来ずにいる。
 暫(しばら)くの間、注意深く神ということばを繰り返してから、悪ということばを出してみて、それぞれどんなバイブレーションが体内に起こるか、反省してみるがよい。まだこの実験をしたことがなければ、改(あらた)めてそれを実験すれば、あなたたちにとってそれは一(ひと)つの啓示(けいじ)となろう。多くの科学者は有神論(ゆうしんろん)の仮説を立てることは不可能だといっているが、彼らに構(かま)う必要はない、彼らが昨日(さくじつ)、不可能と言明(げんめい)したものも、今では成就されつつあるのである。
 今や自分の家(こころ)の中に入り、中を整理して、神なる語(ご)が自分のために何をしてくれるか、それを知(し)る好機(こうき)である。しばし注意を深め、試(こころ)みにこの神(かみ)なる語を発(はっ)し、すべての差別や小競(こぜ)り合いがおのずからにして放下(ほうか)されてゆくのえを体認(たいにん)するがよい。全霊をもって神なる言葉を出すがよい。そしておのずからにして同胞(どうほう)たちをもっと親切に遇(ぐう)し、もっと公正に扱(あつか)わずにはおれない法悦(ほうえつ)を実感するがよい。神を吾(わ)が前に置けば、忘却(ぼうきゃく)の彼方(かなた)より続ける世々(だいだい)の迷妄(めいもう)の霧も、一条(いちじょう)の煙のごとくに消え去るであろう。こう言えば、知性は眉(まゆ)をしかめもしようが、知性に構(かま)う必要はない。それは幾度(いくど)も誤(あやま)ちを犯(おか)してきたからである。神なる語によって自分の中を支配し、敢然(かんぜん)として起(た)ち上がれ、然(しか)らば全世界の争(あらそ)いも混乱も、あなたたちに一指(いっし)だに触れることはできないのである。
 神即(すなわ)ち最高のバイブレーションが実存(じつぞん)し、それが至高(しこう)の力であることを進んで知るとき、それを用いることによって一切を支配することができるのである。それによって自分の体を方々(ほうぼう)に移(うつ)すこともできる。あなたたちが今或(あ)る場所について同時に他の場所にもいる必要がある場合、あなたたちを現在の場所に留(とど)めているのは、我(が)であって神ではないことを思い起(お)こして欲しい。今いる場所に留(とど)まったままとすれば、それは神の力を制約した使い方をしているにすぎない。故(ゆえ)に我(が)を放棄(ほうき)せよ、制約を捨てよ、吾は神のキリスト、神のバイブレーションと力と一体なりと宣言(せんげん)せよ。自己が神のバイブレーションそのものであることを決定的に自覚(じかく)した瞬間、あなたたちは目的地に来ているのである。
 或(あ)るものを考えるというだけはでそのものは成就しない。そのことについて知(し)り且(か)つ為(な)さなければならない。その次にそれを為(な)さざるを得(え)なくなるまでに、根源者(こんげんしゃ)(神)を愛し崇(あが)めなければならない。なるほど信念(しんねん)は正しい想念を起(お)こさせ、正しい『道』を示す。信念である以上は、神のキリスト我としての命令、即(すなわ)ち『吾(われ)こそがかのバイブレーションなり』との命令を実際に下(くだ)すのである。そのバイブレーションに主権を握(にぎ)らせた瞬間、あなたたちは起(た)ち上がって断行するようになる。愛と崇拝を伴(ともな)う認識こそが成就をもたらす。神のバイブレーションが意識されないからといって、それが実在しないということにはならい。それが実在することを信じ、次にその実在を認めることによって、その実在を意識するようになり、遂(つい)にはそれを使役(しえき)出来るようになるのである。
 或(あ)るバイブレーションを起(お)こし、そのバイブレーションの場と波長が合っていると、それ以下のバイブレーションの場で自己を表現する者達の目には、あなたたちの姿は見えなくなる。もしあなたたちの体が光速度(こうそくど)で振動するならば、あなたたちの姿はいよいよ見えなくなる。光は生命である。全面的に光(ひかり)振動の中に生きるなら、あなたたちの体はすでに純粋の生命となっている。光と生命が神である。故(ゆえ)に、神のバイブレーションの中に住(す)むとき、すべては神なのである。
『太陽も日中は汝(なんじ)の光とならず、月も汝(なんじ)に光を与えざるべし。主(しゅ)のみ永遠の光、汝(なんじ)の神、汝(なんじ)の栄光とならん』。〔イザヤ書、60章19節〕主(しゅ)なる神のキリストの体が神のバイブレーションと一致しているときは、もはや彼には光の必要はなくなる。すでに彼の体自体が真昼間(まっぴるま)の太陽の光よりも純粋なる光となっているのである。イエス、言いかえれば人間を通じて純粋な生命光(せいめいこう)を現(あらわ)わす主(しゅ)(Lord(ロード))、即(すなわ)ち神(即(すなわ)ち神の法則(Law(ロー)))は、地上においてキリストとなる。主(しゅ)(ロード)(法則(ロー))即(すなわ)ち神の法則を理解してそれを実際に生きれば、各人がキリストとなる。
『吾(われ)〔神我(I AM)〕は世(よ)の光である。わたしに従(したが)う者は闇(やみ)を歩(あゆ)むことなく、生命の光を得るであろう』
 『そこでパリサイ人たちがイエスに言った。≪汝(なんじ)は汝(なんじ)自身のことを証(あかし)している。汝(なんじ)の証(あかし)は真実ではない≫。イエスは彼らに答えて言われた。≪わたしは自分のことを証(あかし)しているが、わたしの証(あかし)は真実である。それは、わたしが何処(どこ)から来て何処(どこ)へ往(ゆ)くかを知っているからである。しかし、あなたたちはわたしが何処(どこ)から来て何処(どこ)へ往(ゆ)くのかを知らない。あなたたちは肉(にく)によって裁(さば)くが、わたしは誰をも裁(さば)かない。しかし、もしわたしが裁(さば)くとすれば、わたしの裁(さば)きは正(ただ)しい、なぜならわたしは一人ではなく、わたしを遣(つか)わされた父なる神と一体だからである。又、あなたたちの律法には二人による証言は真実である。と書いてある。わたし自身のことを証(あかし)するのはわたしであるし、わたしを遣(つか)わされた父もわたしのことを証(あかし)し給(たま)う≫。
 すると、彼らはイエスに言った、≪汝(なんじ)の父は何処(どこ)にいるのか≫。イエスは答え給うた、≪あなたたちは、わたしのことも、わたしの父のことも知らない。もしわたしのことを知っていたなら、わたしの父のことも知っていた筈(はず)だ≫〔ヨハネ伝、8章12~19節〕。
 もしあなたたちが神と手をつないで歩(ある)くなら、どうして闇(やみ)を歩(あゆ)む筈(はず)があろうか。あなたたちが神をして勝利せしめるならば、あなたたちのなす業(わざ)や功績(こうせき)は久遠(くおん)である。あなたたちはこのバイブレーションと共(とも)に出て来たこの光に忠実に生きる限り、あなたたちは亡(ほろ)びることも変わることも決してない――これらのバイブレーションは永遠に続くのである。
 高尚(こうしょう)なる生涯(しょうがい)を送り、高尚(こうしょう)なる行(おこな)いをした人々が沢山(たくさん)いるが、それはすべて神のバイブレーションを通じて成(な)し遂(と)げられたのである。こうして彼らはこれらのバイブレーションを低めて水様(すいよう)質料(しつりょう)(Substance(サブスタンス))を結合(けつごう)して形あるものとする。こういう風にして彼らには創造する力がある。液様(えきよう)質料(しつりょう)はあらゆる元素を含(ふく)む質料である。いずれ科学者は、すべての元素を溶解すればこの液様(えきよう)、または蒸気の状態になることを発見するであろう。この状態において、すべての質料は同じ振動率で振動または放射している。従ってこの振動を元素の粒子が合体する振動率まで下げれば、望みのままの元素が得られる。ここにおいて宇宙放射線は重要な役割を果たすことになる。即(すなわ)ち、ここで変性(へんせい)が起こるのである。(訳者註:「道」の科学は、創造の原質や元素として、「宇宙質、地質、動物質、植物質、水質、人間質」を挙げている。)
 大いなる魂をもった人達がこれまで沢山(たくさん)いたが、その業績も彼らと共に過(す)ぎ去(さ)ってしまった。それは彼らが自分を支える力を知らなかったからである。他の者たちと同様に、彼らもまた自分の業(わざ)を自覚せず、かくて忘れ去(さ)られたのである。もしも彼らが、この支える力の実態を知り、従(したが)って明確な想念と行為によって彼らの行(おこな)いを統一していたら、例えば現在のエジプトのピラミッドの形で人類の前に聳(そび)え立っている大いなる業績の山々のように、彼らの業績もまた忘れることのできない大いなる山として存在したであろう。
 キリストの生涯を送ることの方が遥(はる)かに偉大ではないだろうか。それはあなたたちの理想とするにふさわしい価値のあるものではなかろうか。それは人生のもろもろの瑣事(さじ)〔つまらない事〕を完全に消(け)し去(さ)るのではないだろうか。敢然(かんぜん)として前進し、キリスト我(神我)の生涯を生きた人々の業績があなたたちに分からないのだろうか。このことを成(な)しとげたときあなたたちは変貌(へんぼう)の山に立つのである。
 人間の律法(りっぽう)と予言は、いずれは消え去る。しかし勝利に輝(かがや)くキリスト(神我)のみは永存(えいぞん)。それも悄然(しょうぜん)〔元気がない様子〕としてではなく、毅然(きぜん)として屹立(きつりつ)するのである。あなたたちにもこの事ができる。いや、人はすべてが意志しさえすれば、それができるのである。今やあなたたちは、自分と父なる神とが一つであることが分かった。これは、自分と父なる神とが一(ひと)つの律法(りっぽう)として共に在(あ)る証(あかし)であり、この証(あかし)は真実である。故(ゆえ)に、もしあなたたちに裁(さば)く場合があれば、その裁きは正しい。もし又、あなたたちがその起源について証(あかし)をするならば、その証(あかし)は正しい。あなたたちは自分の起源を父なる神と共に知るのであるから、あなたたちは決して過ぎ行き消えることなく、常に父なる神を知る。『もし彼らがわたしの父なる神を知っていたなら、彼らはわたしを知ったであろう』、何故(なぜ)なら、わたしたちのバイブレーションは完全に一致していた筈(はず)であるからである。
 「そこでイエスは、彼が教えを垂(た)れた寺院の中で叫(さけ)ばれた、≪あなたたちは二人ともわたしを知り、わたしがどこから来たかを知っている。わたしは自分で来たのではない。わたしを送られた方は実在(じつざい)される。あなたたちはそのお方を知らない、しかしわたしは彼を知っている。わたしは彼から来たのであり彼がわたしを送られたからである。≫そこで彼らはイエスを捕(と)らえようと思ったが誰も手をかけなかった。それはイエスの時(とき)はまだ来なかったからである。そこで多くの人々が彼らを信じて言った。≪キリストが来給(きたま)うたときでも、この人以上に奇蹟(きせき)をなすであろうか≫。
 そこでイエスは彼らに言い給うた、≪しかし今しばらくのあいだ、わたしはあなたたちと共にいる。しかし、やがてわたしはわたしを送った方のところに行く。あなたたちはわたしを探(さが)すが、、見つからぬであろう。わたしの行くところに、あなたたちは行くことはできない。≫(ヨハネ伝、7章28~34節)』
 と聖書にある通りである。
 キリストの中には、霊的なものと物質的なものとが融(と)け合っている。霊は、『わたしは自分で来たのではない、私は父なる神のものである』と知っている。寺院(体)はキリスト(神我)の輝き出る純粋のチャンネル・媒体とならなければならない。人の中にキリスト(神我)が目覚め起(お)きた時、その時こそ彼は、わたしがしたこれらのことよりも尚(なお)、大いなる奇蹟(きせき)を演ずるであろう。あなたたちが欣求(ごんぐ)〔よろこんで道を願い求めること〕すれば、わたしの中に、そして、あなたたちの中に、そしてすべての同胞たちの中に普遍(ふへん)なるキリスト・神我がましますことを知るだろう。
 普遍なるキリスト・神我があなたたち一人一人に現われるとき、あなたたちの『時は来(き)たる。そのときキリストとしての自覚が高まり、わたしがしたように父なる神を賛美(さんび)するであろう。〔マタイ伝27章46節〕十字架でのわたしの最後のことばが、『わが神よわが神よなんぞ吾を見捨て給う』と録(しる)されているが、これは完全な誤訳(ごやく)である。ほんとうのことばは『わが神よ、わが神よ、あなたは、わたしやあなたの子らの誰(だれ)一人(ひとり)として、見捨(みす)て給(たま)うことはありませんでした。あなたの子らは、わたしがあなたのみもとに来たように、あなたのみもとに来ることができるからです。彼らはわたしの生涯(しょうがい)をあるがままに見ることが出来ます。その生涯を彼ら自身が生きることによって、おお父なる神よ、キリストを具現(ぐげん)して、あなたと一(ひと)つとなります』ということだったのである。【訳者註:ブラヴァッキー夫人はこの言葉が当時の僧侶達がヘブライ語から翻訳する時に、明らかに意識的に翻訳し変えたのであって、原義は「吾が神、吾が神、何と貴神は、私をこんなにも栄化(えいか)して下さることか」である、と文献学的に指摘している。「密教」第五巻参照】
 そこにはいささかも、見捨てるとか、分離とかいう考えはなかったのである。あの『時』の遥(はる)か以前に、神のキリスト(神(しん)我(が))はハッキリと顕現(けんげん)していたのである。彼らがわたしの肉体を焼いたとしても、この見かけの上での破壊によって放散(ほうさん)した同じ粒子で、わたしは再び肉体を組み立てることも出来たのである。又(また)、彼らはわたしの肉体のあらゆる粒子を分割したとしても、瞬間的にそれを組み立てることも出来たのである。故(ゆえ)に、その通りわたしが実行したとすれば、そこに何ら肉体の変化はなかったであろう。
 人間は神のキリスト・神我の悟性(ごせい)が出るようになると、知恵を持っているエネルギーを開放するようになり、このエネルギーと智慧(ちえ)とが彼を完全に包み込むようになるので、仮に肉体が分解して生命要素が肉体の粒子から分離するようになっても、この英智(えいち)なる生命原理はこれらの粒子を再び統合(とうごう)して、前と同じ形にすることも出来る。即(すなわ)ち、もともと肉体の原型があるのであって、この原型は破壊(はかい)することのできない質料の中で、その質料で造られる。必要なのは、ただこの生命要素の浸透(しんとう)した質料を再結成し型に満たすことだけであり、かくしてそれは前と同じ完全な型、もしくは肖像(にすがた)となる。
 従(したが)って、わたしが十字架につけられても、何ら傷害を受けなかったことが分(わ)かるであろう、それは、キリスト原理・神我を傷つけようとした人々のみに、傷害を与えただけである。この事は、いずれは全人類の通(どお)る一(ひと)つの道である大原理の法則が満たされる一(ひと)つの例である。かくのごとく同じ道を通ることによって、全人類が神のキリスト(神人(しんじん))となる。かくして彼らの理想が遂(つい)に不滅の形として結実するのである。この肉体さえ実(じつ)は破壊されなかったのである。この肉体のバイブレーションは極めて高いので、それを十字架に打ちつけて高く揚(あ)げるという単なる行為が、実はわたしを十字架の刑に処(しょ)した人々にとって、現象人間が肉体に加えうる一切の制約に終止符をうったというしるしに過ぎなかったのである。人間の制約行為を完全にするためにその次に必要なのが、死体を墓の中に納(おさ)めて大きな石をその上にころがし、墓口を完全に密封(みっぷう)することであった。それ故(ゆえ)に、わたしは『事(こと)終(お)わった』と叫(さけ)んだのである。死すべきものが終わった時、死せざるものが完成する。人間の不可死体、岩を刻(きざ)んで造った墓にさえ閉じ込めることは不可能なのである。
 必要とあらば岩を溶(と)かして閉じ込めた肉体を開放することだって可能だった。かくのごとくして、これらの中の情景(じょうけい)はすべて人間が神から受け継(つ)いだ遺産の一(ひと)つの象徴であったことが分かるであろう」。