ヒマラヤ聖者生活探求

第十七章 因果の超克・キリスト誕生の歴史     第三巻

大野外(だいやがい)宗教大会前日のリシの話。(リシとは、本来サンスクリットで、ヴェーダ聖典を感得したという神話・伝説上の聖者あるいは賢者達のこと。インド学では「聖賢」などと訳される)

 『しかし、目は見ず、耳は聞かなかった。又、【神が神を愛する人々】のために備えられたものも、人の心の中には這入(はい)って行かなかった。』(コリント前書。2章9節)と書かれているが、【 】内の部分を【神のキリスト(神我)を愛し、神のキリスト(神我)を現わすものたち】と訂正すべきです。

 生命の原理、即(すなわ)ち生命の目的を悟るものは少ない。理解原理((Understanding(アンダースタンディング) Principle(プリンシプル))とはすべてのものの下(もと)(under(アンダー))に立つ(stand(スタンド))ところのもののことで、重要なものです。従って、『汝の得るすべてを尽くして理解力(Understanding(アンダースタンディング))を得よ』とは正しい格言(かくげん)です。すべてのものの下(もと)には、理解力のある意識を持った目的が横たわっている。ソロモン(古代イスラエルダビデの子)に数々の知識と富(とみ)等をあざやかにもたらしたのもこの理解力でした。彼は理解の基礎となるものが与えられるように、又、理解する情(こころ)が自分に与えられるようにと願ったのです。それが彼に大いなる英智の泉(いずみ)を開(ひら)き、彼を大いなる権力の座に導き、彼に大いなる富(とみ)と名誉を与え、千(せん)もの大いなる才能をもつ王と称(しょう)せられるに至らしめたのでした。このことが譬喩(ひゆ)的に『ソロモンの千人の妻妾(さいしょう)』と言われてきたわけです。

 ソロモンの時代には、妻一人(ひとり)は一(ひと)つの大いなる才能、即(すなわ)ち、宇宙の全史(ぜんし)とその人類全体及(およ)び各個人との関連を予見(よけん)するところの力の象徴(しょうちょう)でした。これらの才能をその国民の利益のために投げ出して使ったとき、彼の倉(くら)は『猶(なお)も三千』増加し、彼を謳(うた)った歌は『千五百であった』。『しかして神はソロモンに彼の大きさを遥(はる)かに越える程(ほど)の英智(えいち)と理解力とを、海辺(うみべ)の砂のごとくにさえ与え給(たも)おた』のです。(烈王記前書、4章29~32章)

 ソロモンは単なる文字通りの王(おう)でもなく、仮(かり)の王でもない、彼は自分自らとその家とを支配する王であった。この王位を彼は保(たも)ち、王座よりその智慧(ちえ)を求めるものに、愛と理解と叡智(えいち)と正義と豊かさとを施(ほどこ)したのです。

 その頃は全人類が外(そと)に求めていた。それに応(こた)えて彼は愛と理解力と叡知(えいち)と正義と豊かさとを与え、更(さら)にはその千倍(せんばい)の返(かえ)しを受け取ったのです。国民を『鉄の如(ごと)くにまっすぐ立つ棒(ぼう)』で治(おさ)めたというが、それは誤りを決して犯すことのない律法の象徴だったのです。真我を出して神(かみ)原理(げんり)に従うべしという神理、即ち法則(ロー)、従って又(また)主(ロード)〔これのみが神のキリスト(神我)の富が如何(いかに)にその質量ともに無限であるかを知る〕に従う時、法則(ロー)即(そく)主(ロード)の報(むく)いる富は、彼の与えたものの一万の千倍にもなって彼に帰り、流石(さすが)の彼の王国(全地(ぜんち)がその王国であったが)も、これを容(い)れることができなかった。

 受けることを考えずに与えよ。そうすれば、その報(むく)いは測(はか)ることもできぬほどとなる。まず神にしかるのち全地(ぜんち)に愛を与えるのである。その愛があなたに還(かえ)るとき、それは全地球を回り、一万の一千倍になっている。幾百万となき人々の思いの中を通り、各人がそれを一万(いちまん)の一千倍に増やしたとき、それが還流(かんりゅう)すれば、一体(いったい)地上に、それを収(おさ)めうる余地(よち)があるであろうか。

 この行き方によってのみ地球は解放され、その結果、地上天国が実現し、調和が至高なものをなして君臨する。ソロモンはこのことを理解、英智、正義、豊かさと大きな歓(よろこ)びをもって実行せよと、自分自身に命令しました。その結果、どういうことになったか。地球は豊かな富を収納できなくなった。そうなれば、もはやそれは地球ではなく、天国である。

 ソロモンの時代の人々が彼を大王、神と呼んだことに不思議はありません。人々はソロモンが必要なものは何でも与えることができると思って跪(ひざまず)いて彼を礼拝したが、ここに彼らの誤りがあった。実は彼らはソロモンが彼らの見倣(みなら)うべき模範であることを悟らなかったのです。神はソロモンに語(かた)り給(たま)うた、『全地(ぜんち)にあなたのようなものはいないであろう』と。たしかに地上には、彼の如き人物は二人とはいなかった。なぜなら彼は既に地上の身分を放棄していたからです。天上(てんじょう)の身分こそ彼のものであり、彼の部下の諸候もまた同じく天上の身分を持(じ)して、ソロモンと同じく王者らしい統治をしたのでした。ソロモンは神を顕現(あらわ)した。それが人間の遺産であり、彼の国民はそれに倣(なら)うべきでした。

そのような大王が、自分の部下の諸候(しょこう)を一人でも死罪に定めることがあるであろうか。もしそうすれば、彼は自分自身を更に一万を千倍にした死罪に定めることとなる。かくの如く、愛と智とを以(もっ)て治(おさ)める王は、他の諸候を統治したのではなく、他の諸候と共に公正な統治をしたのであります。従(したが)ってそこには、何ら絢爛豪華(けんらんごうか)に外部を飾(かざ)って威圧したり、誇示(こじ)したりする必要はない。彼は王冠(おうかん)を見せることさえ要らない。もともと人類はみな王冠について知っているのである。かくのごとき王こそ真の支配者――少数の支配者ではなく人間各成員と共に統治する支配者――である。人々は彼と共に支配する。これこそ至高の君臨をなす人にして神である。これこそがイスラエルの家である。この家がやがて木となり、根となり、枝、梢(こずえ)、葉、花となり、馥郁(ふくいく)(よい香りがただようさま)たる香り、即ちすべての種族の精髄(せいずい)(物事の一番すぐれた大切なところ)となる。

 そのような種族が曾(かつ)てこの地上に生存したことがあるし、また再(ふたた)び生存するようになるであろう。わたしはあなたたちに告(つ)げる、迷う必要はない。天国はすでにここにある、ここを各人が天国にすると意志さえすれば。

 人は神のお召(め)しに耳を傾けることを拒(こば)むから、死んではまた生まれ変わって試練や苦悩多き人生に戻ってくるのです。そして又、いくどもいくども死の門をくぐって、ようやく最後に教訓――即ち、絶対的な霊的知覚という岩の上にこそ、全人類という家族の家は建てられるのだという教訓――を学び取る。

 そのような人々には、死も存在しないし、死を繰り返すこともない。故(ゆえ)に因果の法則(カルマ)は存在しない。因果とは結局、不調和〔老・病・苦・死など〕の実現を目的とする報復に他ならない。報復に代(か)えるのに自我放棄を以(もっ)てせよ。そうすれば因果の動因は矯正される。なぜなら、因果はそれを発現させようと決めてかかってくる人たちの思いの中にのみ存在するからである。原因を取り除くか、それを一層高い状態で取って代えれば、低い状態は消える。かくして、あなたたちは自分の体のバイブレーションを、因果を招く状態よりも昇華させたことになる。

 そうしない限り、死んだところで因果は決してなくなりもしないし、破壊(はかい)もされず、消えもしない、かえって死によって因果が加わり、幾層(いくそう)倍(ばい)にも増大し、結局、各個人個人の上に大浪(おおなみ)のうねりの如(ごと)くに積み重ねられてゆくだけです。死と生とを放下(ほうか)した瞬間に、これらの因縁因果から解放される、かくして二(ふた)つとも消えたのである。消えたのであれば、それは忘れ去られてしまうだけである。

 この段階で、生命が絶対に永続するということを把握(はあく)して、それを実現することができなくても、死という誤りに対して生まれ変わりという最後の救済(きゅうさい)策(さく)があります。生まれ変わりは死というお先真っ暗な径(みち)の導(みちび)きの光です。この光の導きによって、何回も何回も地上の体験を繰り返すことによって、遂(つい)に死を克服し得るようになります。これらの体験が教える教訓によって、われわれに課せられていたもろもろの信条や独断(ドグマ)は、神から来るものではなく、実は人間が造りあげたものであったことに目覚(めざ)め、かくしてそれらの虚構を遂に放下(ほうか)する悟りに達するようになる。そのとき、わたしたちは神の全栄光、父の家、即ち人造(じんぞう)の信条や迷信の混入していない自分自身の神我という家、遥(はる)か遠くをさ迷い歩いたために朧(おぼ)ろにしか見えなかった光、しかしそれにも拘(かか)わらず、常に明るく輝き続けている光、の中に再び歩み入ることができるのである。

 この家に再び一歩一歩近づく毎(ごと)に光はいよいよ明るくなり、遂には中に入ってみれば、今まで我見(がけん)のために微(かす)かにしか見えなかった光が、もとから持っていた温かさと美しさで輝いているのに気づく。ここで改めて静けさ平和と安らぎを見出し、思うがままに、心ゆくまでにそれを享受する。今にして思えば、放浪を重ね、信条や迷信の虜(とりこ)となる前にこの家に入っておれば、とっくに自分のものになっていた筈(はず)である。しかし、始めからそうなのではあるが、径(みち)の終わりでも又、すべての誤ちは忘れられ、赦(ゆる)されているのです。

 『汝らの静まりて立ち、汝らの中なる主の救いを見よ』。もろもろの現象の中にあっても心の全(まった)き静けさを保(たも)ち、あなたたちの真我である主(しゅ)なるキリスト(神我)が為(な)し給う完全な救いを見ることです。このようにして、わたしもアブラハムが遥(はる)か以前に利用した法則を覚知(かくち)し、又それについて述べてきました。この法則はその時代も今も同じように真理であります。現象は元来(がんらい)、想念(そうねん)や言葉や行いのままに、信念の程度に従って形をとるものです。もし現象がよくなけば、その矯正法は『想(おも)いを変えよ』ということです。

 聖書が原文から今の形に翻訳される際に、丁度多くの偽りの予言のように多くの誤りがありました。それは翻訳者たちが自分の取り組んでいる文字や象徴について理解が欠除していたためです。

 しかし彼らは一応良心的ではあり、理解しうる限り、たくみに訳出(やくしゅつ)はしてあるので、その程度の誤りは、一応(いちおう)は寛容できるけれども、それ以上の大部分が、『イズラエルの家』の原始福音(ふくいん)を神秘めかし、歪曲し、破壊するために仕組まれた唾棄(だき)すべき虚偽なのであります。

 イズラエルの始めの名はイズーラエルであって、水晶、即ち純白の人種という意味であり、世界に住(す)みつくようになった人種の中の第一番目の人種、原始又は原人種で、他の人種はすべてこれから派生(はせい)したものです。この人種は又、純粋光線の人種、光、または光条(こうじょう)を意味する人種ともいわれており、アーリァ人種(現在のインド、ヨーロッパ系人種)はこれから起きたものです。

 聖書をこのように歪めたのは、大部分が紀元一世紀と二世紀に始まり、特にダニエル書、エズラ書、ネヘミヤ書に対してこの攻撃の手が向けられたものです。誤謬(ごびゅう)はさらにジョゼフズの初期の著作やその他の書にまで及び、その当時までは実存(じつぞん)していた有名な諸資料や、その以前に起こっていた幾つもの事例をかくすために故意に仕組まれたことを、明らかに物語っています。更に又、人間の意識が出現して以来、イズラエル人によって保存されてきた明確な年代記述の方法や歴史を破壊するためにも、この幾つもの虚偽がなされたものです。真実の事件について嘘の歴史を数千も書いて原文とすりかえ、こうして真実の歴史資料が大部分ゆがめられ抹殺(まっさつ)されたのです。

 このアトランティス人種の直系であるアーリァ人種は、前に述(の)べた年代記述(きじゅつ)方法を使用し、更(さら)にそれを純粋な形で維持しました。この年代記述(きじゅつ)方法を使用すれば、これらの贋造(がんぞう)や変用はたやすく見破ることができます。この方法でわたしたちは、本当の完全なユダヤ年表を造って持っています。これらの虚偽はソロモンにまで及び、更に彼の妻妾(さいしょう)たちの家、イズラエルの十の種族の家、その指導者、教師、顧問官(こもんかん)等にまで及んでいます。

 この十種族の家が二つに分化(ぶんか)した後、宗家(そうけ)筋の王国は『イズラエルの家』或(あるい)は『イズラエルの王国』といわれ、別れた方の王国はユダヤの種族といわれるようになりました。この種族はイズラエルに属(ぞく)してはいたが、そのすべてがイズラエルというわけではありません。アブラハム、イザク、ヤコブユダヤ人というのをよく聞くが、これはよくある誤ちというだけではなく、破壊行為でもあるのです。ユダヤの子孫のみがユダの名にちなんでユダヤ人と呼んでもよいのであって、ユダヤ人という言葉はもともとイズラエル十の種族の家にも、又イズラエルの十二の種族にも決してあてはまらなかったのです。

 イズラエル人はユダヤ人ではないが、ユダヤ人はイズラエル国民の一種族でした。

 ユダの種族がパレスチナを去(さ)って囚人(とらわれびと)となった時に、ユダヤ人という呼び名がこの種族に使われました。現在『ユダヤ人』という名で知られている人々は、幽囚(ゆうしゅう)から放(はな)たれた後にパレスチナに戻ってきたユダの種族の残民(ざんみん)なのです。彼らの中には周辺の国民と血が混(まざ)ったものも沢山(たくさん)いて、現在ユダヤ人と自称している人々には、ほんとうのユダヤ種族の血液は三分の一以下しか入っていないのです。

 どの国でもユダヤ人はユダヤ人だけで、永い間固まって生活してきているが、ユダヤ人がイズラエル人、即(すなわ)ちアーリァ民族に混(まじ)って生活していた時は、彼らは繁栄したものです。ユダヤ人の剛直(ごうちょく)さも、実はこのイズラエル人に負(お)うています。従っていずれ時がたつにつれて、ユダヤ人は結局自分達の保護と救済をこのイズラエル人に対して求めなければならないことを悟るでしょう。ユダヤ人自身としては、自分達の家を治める方が適当なのです。

 ユダヤ種族のうち、イズラエル人に加わって共にヨーロッパ中に散(ち)らばって移住(いじゅう)した人々は、現在『ユダヤ人』といわれている種族の一部とは違います。この人々は、英国の諸島その他や、地中海の海岸沿いに定着した他のイズラエル人と全く見分けがつかなくなっています。それは相互結婚や環境によって種族の特徴がなくなったからです。わたしはこの種族の者なので、その辺の事情が分かるのです。

 ユダヤ人たちはわれわれと一緒にくらしているから、その歴史を一歩一歩各時代ごとに、『ユダの家』よりユダの種族に至り、更(さら)に現代に至るまでの跡(あと)をたどることができる。彼らは偉大なる種族としての顕著な象(しるし)のひとつを持っています。即ちそれは、この偉大な種族が離散分離する前にそうであったように、神なる理念を保持し、種族の成員一人一人が裡(うち)なる神のキリスト・神我に従って全種族が復元し、一種族となることを目指すことです。

 イズラエルがエルザレムから移住した足跡をたどるのは難しいことではありません。英国の諸島に定住した人々の足跡はすぐに判別できるし、ダン〔パレスチナの北部の古都〕の種族の場合もそうです。要するに、その名前や歴史や定住した場所で、すぐにそれと分かるものです。

 この種族に因(ちな)んで名づけられたダニューブ河は、今では自由に船の出入りができる碇泊所(ていはくじょ)となっています。この種族が更にいくつかの種族に繁殖分散(はんしょくぶんさん)して、デイン人、デュート人、ピクト人その他の名まえをつけられ、この河を経由して後に英国にやってきたわけです。同様にして又、スカンジナヴィア、アイルランドスコットランド、その他の国々に移住し、また英国に、後にアメリカに移ったのであるが、アメリカに到着したことは以前の本国に帰ったことになるわけです。しかしこのイズラエル発生の地アメリカでは、種族の特徴が急速に失(うしな)われ、言語も一つに成りつつある。しかしその言語は、彼らが出国の頃に話していたもとの言語になるでしょう。

 彼らは故国(ここく)を忘れて、長い長い間流浪(るろう)してきたが、今や故里(ふるさと)に再び戻ってきたのです。その故里(ふるさと)の土地は南アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド南洋諸島までのび、更(さら)に又、日本と中国まで及んでいます。

日本人と中国人はあまり移住をしていません。彼らの故国(ここく)はムー大陸で、ムー大陸が海底に沈没する前に、この母国から移住した重要な種族の分(わ)かれなのです。元来(がんらい)ウィグール、即ち、放浪の種族と呼ばれ、大蒙古族(だいもうこぞく)の先祖に当たります。白人種が最高の文明に達したのは、このムー大陸においてでした。この白人種は放射エネルギーを使用することによって、原子のエネルギーを解放して有用な仕事をしたり、また人体浮揚(ふよう)も開発して、或(あ)る地域から他の地域へ自分自身を移動させたりしたものです。彼らの考え方は異教徒の礼拝形式、信条、独断(ドグマ)や迷信に全くわずらわされず、全人類を貫流(かんりゅう)しているところの人間は神と等しく聖なりという真実の原理を礼拝したものです。

 イズラエル―アリヤは唯一(ゆいいつ)賢明なる王位と文化の象徴です。聖書はこの種族から出て来たのであり、この種族に対してあの最高の教えが与えられたのです。

 人間の中のキリスト(神我)が彼らの理想でした。それは、いわば、常に光を放(はな)って燃え続ける炬火(たいまつ)であり、笏(しゃく)の頭〔王の権威の象徴〕でした。この炎(ほのお)に空気を送って、いやが上にもその光を増(ま)し、人々にその教えを忘れさせぬために、これらの教えが一冊だけでなく十二冊もの聖書に記録されたことです。外部や内部からの破壊を防(ふせ)ぐために、同じように十二の聖書を石に刻(きざ)んでムー大陸の処々(しょしょ)方々(ほうぼう)に保存し、後にこれらを一つにまとめて永久保存するために大ピラミッドが建造されたのであります。

 かくして普遍(ふへん)なるキリスト(神我)は、文明の淵源(えんげん)であると同時に金剛(こんごう)不壊(ふえ)であり損(そん)ずることも除(のぞ)き去(さ)ることもできないことが証明されました。それは光を高くかかげるビーコン(目印)としてのみならず、その光の反射塔(はんしゃとう)としても又(また)、永久に存続して行くでしょう。更(さら)に、それは単に光を反射するだけではなく、屡々(しばしば)繰り返されてきた天命(てんめい)を放送(ほうそう)してもいるのです。即(すなわ)ち曰(いわ)く、『もし人類にして光を失(うしな)わば、深く沈潜(ちんせん)せよ、汝(なんじ)ら其(そ)の光(ひかり)を新(あら)たならしむる教えの録(しる)されてあるを見出さん。曾(かつ)て光を奪(うば)われ、放浪する迷(まよ)える羊(ひつじ)たりし汝(なんじ)らより、光(ひかり)再(ふたた)び輝(かがや)き出(い)でんがためなり。』

 神にとっては、光(生命)なくしてさまよう者はすべて群(む)れより離(はな)れ迷(まよ)う羊(ひつじ)である。しかし実はその群れは常に今、此処(ここ)に在(あ)るのであって、それに気づいて戻りさえすればよい。キリスト(神我)即(すなわ)ち羊飼いは、炬火(きょか)〔たいまつ〕を高くかかげて羊(現象我)の入って来るのを待っている。キリスト(神我)は長き年月かくされてきたが、光を求めて来るもののために、常に今此処(ここ)にあるのである。

神(しん)我(が)こそは大宇宙の始源(しげん)の顕現(けんげん)である。神の声、神の言葉が語られる、『此処(ここ)に光り在(あ)り。彼処(かしこ)に光り在(あ)れ』。かくてバイブレーションが閃(ひらめき)き出るや直(ただ)ちに生命が現(あら)われた。この生命が神より離れることの決してないことは、かの大ピラミッドがその基底(きてい)を大地にしっかりと踏(ふ)んまえ(踏まえるを強める意)、冠(かんむり)石(いし)なき頭を空(そら)に挙(あ)げている事実が証明している。

 人がその真の遺産たるキリスト(神我)を受け容れ、神のキリスト(神我)こそ自分の真我であって一切を支配するという事実を受け容れた時、始めてピラミッドの王冠(おうかん)即ち冠石(かんむりいし)はのせられるであろう。その時、それは人がもはや群れ(神我)より二度と離れ迷(まよ)わなくなった事実への永遠の証人(しょうにん)として屹立(きつりつ)するであろう。

 大ピラミッドは石造(せきぞう)の聖書であります。それは神の選民(せんみん)達(たち)の業績(ぎょうせき)と流浪(るろう)とを描(えが)いている不壊(ふえ)の記録であります。これは只(ただ)ユダヤ人達が自称(じしょう)するように、ユダヤ民族という特定の民(たみ)をいうのではなく、キリスト(実相・神我)の光を受けるすべての民を意味する。それは又、人々にキリスト(神我)以下の者であってもよい、それ以下の行いをしてもよいという譲歩(じょうほ)を決してしない。それは人類やその一人一人の成員がこの真の光よりさ迷(まよ)い離れ、それを忘れ晦(くら)ますことのないように、又、彼らの中からこそキリスト(神我)を完全に現(あら)わす決意をなし、赫々(かくかく)〔光り輝き〕と燃える炬火(きょか)〔たいまつ〕を高くかかげて、内在のキリスト(神我)にふさわしく世(よ)を導(みちび)くものが出るという事実の証人(しょうにん)として、聳(そび)え立っているのである。

 さて、ムー大陸の文明は時代と共(とも)に堕落(だらく)してゆきました。事実この偉大なる人類も、長い間暗(くら)い道を歩み続け、遂(つい)にはその自性(じしょう)を失い、全くの野蛮(やばん)に逆行(ぎゃっこう)するものと思われました。人間としてのあるべき純粋な考え方を守る者は極めて少数にとどまり、その少数の人達が相(あい)連繋(れんけい)して一心(いっしん)集中することにより、人類全体を擁護(ようご)する光明(こうみょう)を送り易(やす)くするには、隠遁(いんとん)しなければならないことが認められました。

普遍(ふへん)なるキリスト即(すなわ)ち神我が今猶(なお)、人々の中に生きており、顕在(けんざい)しての活動こそはしていないが生命の核であることを、思想、言葉または行いによって、初めは個人に、やがては人類全体に、教え且(か)つ示(しめ)す神人の救世主が世界には必要であるという教えは、このグループを通じて宣布(せんぷ)されたものです。

然(しか)るに、無智(むち)と、キリスト(神我)にふさわしい生活をすることの拒否(きょひ)によって、キリスト(神我)の火は既(すで)に沈(しず)められていました。

至高者(いとたかきもの)が、人間の最高の理念に忠実(ちゅうじつ)に従(したが)って生きる救世主を任命(にんめい)したこと、この救世主は定められた時に生まれてくることが、話や予言、或(あるい)は個人やグループの予告によって、人類に宣布(せんぷ)されました。

 このことは至高者(いとたかきもの)の勅令(ちょくれい)で、それを次位(じい)の神が人間の或(あ)る集団にインスピレーションとして伝(つた)え、これらの人々は下生(げしょう)する救世主に人々を引きつけるためには、その降臨(こうりん)の時を定めることが必要であると認め、その下生(げしょう)の方法と目的、その誕生の正確な年月日磔死(たくし)の正確な日まで、すべての人々に知らせるようにしました。

 このことは、救世主の教えに一層(いっそう)重要性と活力とを与(あた)えるためばかりでなく、大部分の人類が淫(いん)祠(し)邪教(じゃきょう)を漁(あさ)り求めていたので、彼らの考え方を或(あ)る中心点、或(あ)る焦点(しょうてん)に引き戻すためにも必要だったのでした。人類はかくの如(ごと)く、迷いに迷いを重ねることに甚(はなは)だしく、その霊的死は目睫(もくしょう)〔目前〕に迫(せま)っていました。そのために、この救世主(メシア)の肉体は屠(ほう)られて岩の墓に入れられ、やがて完全に復活(よみがえり)すべきことが予言され、かくして人類は再び『人の子』より神の子、常に神と一体となって住(す)む神のキリスト(神我)となり得ることが示(しめ)されたのです。これに倣(なら)って神の生命を生きて行けば、人の汚職(おじょく)の中に二度と戻ることなく、平安と美徳(びとく)とが再び地上に君臨(くんりん)するものと思われました。このような状態が曽(かつ)て実存(じつぞん)し、万物(ばんぶつ)以前に存在(そんざい)していたこと。且(か)つまた、救世主は人々に人間の真の遺産について教えることも録(しる)されていました。こうしてキリスト(神我)は実存(じつぞん)し、各時代における『秘(ひ)められし者(もの)』であったのです。彼の教えを通して神の摂理(せつり)の泉(いずみ)は流れ、大地の果実(かじつ)が完熟(かんじゅく)して人の自由な採取(さいしゅ)に供(きょう)されることになっていたのです。

 しかるに、これらの予言はイエスの到来しないうちに異教扱(あつか)いされ、覆滅(ふくめつ)されてしまいました。この覆滅(ふくめつ)の効果は今日にまで及(およ)び、キリスト教の基本要素(人間の実相がキリスト(神我)であること)が常に第一義であり、それが人類の最高の理想を実現してきたことに人々の目を蔽(おお)い、それは前代のもろもろの異教からの借り物に過(す)ぎないと思わしめるに至(いた)ったのであります。

 一方、この幼(おさ)な児(ご)キリストを生(う)み育てる母の肉体と、その地上の保護者となる父の肉体が無原罪(むげんざい)の誕生のために備(そな)えられました。将来おのれの教えを受けるべき人々の間で成人(せいじん)となるべきこの幼(おさ)な児(ご)を養育(よういく)するために、彼等は本来別々に完全でありながら、しかも結ばれて一体となるべく定められたのです。

 母はマリア、父はヨゼフ、いずれもアブラハムの種子(しゅし)より出た真の光(ひかり)をかかげるものたるダビデの子孫(しそん)です。アブラハムとはアー・ブラームで、大宇宙から来た完全なる光の捧持者(ほうじしゃ)という意味です。

ところが、人の子らはあまりにも退歩(たいほ)が著(いちじる)しいため、その肉体のバイブレーションは動物のそれよりも低下していました。救世主はそこへ自分が、長い間忘(わす)れ去(さ)られていたキリストを名乗り出れば、彼らが自分の肉体を動物以上に貪食(どんしょく)しようとすることをよく知っていました。人間の知覚力がキリスト(神我)の光によって導(みちび)かれない限り、人間は動物以下に沈下(ちんか)したりするものです。しかし、彼救世主としては、自分から仕向(しむ)けない限り、堕落(だらく)した人の子らに指一本でも触れさせないためには、キリスト(神我)とハッキリ一体とならなければならないことが、救世主には分かっていました。こうして彼は恐れることなく、この役割を引き受けたのであります。

 この役割を選ぶ人は、この役割こそ、過去における救世主たちがそのキリストとしての生涯(しょうがい)を通(つう)じて果(はた)たしてきたものであることをよく弁(わきま)え、謙遜(けんそん)でなくてはならないものです。

 この大会はこのような考え方を、一層(いっそう)明確に強くしてくれるでしょう。ここに集(あつ)まって来ている数千人もの甚(はなは)だ謙虚(けんきょ)な魂を持った人々より出る雰囲気は、あなたたちにも分かる筈(はず)です。一人の人間でも、その神性を顕(あら)わして完全に自分自身を与(あた)え切るならば、世界を征服し、もはや彼によって死など存在しなくなるという事実を考慮(こうりょ)に入れて、この数千人もの人々の雰囲気が揮(ふる)う力を考えてごらんなさい。この一人の力に、彼と同様の力のあるもう一人の影響力が加わるならば、その影響力は一人の場合の四倍になる。その上、ここに集まってきている人々の人数をこれに掛(か)け合わせれば、この群衆(ぐんしゅう)から全世界に放射(ほうしゃ)している力が、どれだけのものになるかお分かりでしょう。

 このような力のセンターが一カ所でもその放射力を余(あま)すところなく発揮(はっき)すれば、個々の人間が知ると知らざるとに拘(かか)わらず、世界は忽(たちま)ちにして生まれ変わり、再(ふたた)び活力を与えられ、更新(こうしん)されるのです。そのような集会が、遥(はる)か以前より各時代をへて、今日まで世界中特定の地域で、十二年毎に開かれてきています。その数は初期の中は少なかったが、その発する放射線は一言(ひとこと)も呼び掛けなくても他のグループを引き寄せてきました。

 やがて最初の小グループが大きくなり、更(さら)にその中から新しいグループが派生(はせい)し、かくして順々に新しいグループが形成されて遂(つい)に十二のグループが出来上がりあした。この集まりは第十二番目即(すなわ)ち最後のグループで、全部では十三になります。この十三番目のグループは、十二のグループとの合同をはかり、完全なる一大グループを結成するために会合(かいごう)したのです。しかし会合は初期のように、集合に都合(つごう)のよいように、その都度(つど)違った場所でします。もともと厳密(げんみつ)な組織とする試(こころ)みもないし、また固執(こしつ)しなければならぬやかましい規則(きそく)もない。それは只(ただ)、人間各人の体内の組織のように組織されているだけで、この組織を通(つう)じて人はグループの誰かに引き寄せられるわけです。これらの集合の場所は一般人には明(あき)らかにしません。ということは、誰でも見境(みさかい)なしに組織に入れるものではないことを証明しています。

 明日の十二時に会合することになっている集会は、全グループを第一のグループのもとに完全に統合(とうごう)しようとしているもので、十二で一個のピラミッドを形成し、それが人間におけるキリストの理念(神我)の完成を象徴し、十三番目がピラミッドで譬(たと)えれば冠石(かんむりいし)、即(すなわ)ち王冠(おうかん)となるわけです。十三のグループ全部が従前(じゅうぜん)〔以前〕と同じ場所で別々に会合しますが、一(ひと)つのグループの集りも全体のグループの集りも同じで、丁度(ちょうど)全体が首長(しゅちょう)グループと会しているようなものです。このような集合が明日行(おこな)われるわけです。

 十三のグループを一(ひと)つに統合するためだけの集会は別として、十二の各グループから十二名ずつ出て更(さら)に十二のグループを造るとして、この十二をこの要領で更(さら)に十二倍すれば百四十四となる。この数字を人類全体にわたって殖(ふ)やしてゆき、十二名ずつのグループに分かれ、かくして十二名単位のピラミッドを造(つく)ってゆくとすれば、遂(つい)に地球を取り巻くことになりましょう。

 このグループの一員となるのに必要なことは只(ただ)一(ひと)つ、即(すなわ)ち先(ま)ずキリストの理念(りねん)をはっきりと把握(はあく)し、次には思い言葉行いとで世界にキリスト(神我)を顕(あらわ)すことです。そうすればあなたは、この大いなるグループ全体と一つになります。そしてあなたたちが、自分の家で、或(あるい)は聖所(せいじょ)で神に見(まみ)えるならば、それが世界の果(はて)、山の頂(いただき)き、或(あるい)は殷賑(いんしん)〔活気があってにぎやかなこと〕を極(きわ)める市場(しじょう)の中にあろうと、彼らも亦(また)あなたたちに見えるでありましょう。要(よう)するに、神と一体ということが常に決定的な要素であります。自分の想念(そうねん)をキリスト(神我)の高みにまで揚(あ)げた瞬間、あなたたちの肉体はキリスト(神我)のバイブレーションに感応(かんのう)する。その時また、あなたたちはこの大群衆より発する同じバイブレーションに感応(かんのう)する。そしてこの参会者達の巨大なエネルギーがあなたたちのキリスト理念(りねん)和(わ)して全世界に放送されます。あなたたちの影響力は、全体と共に想念(そうねん)の大津波となって伝わり、拡(ひろ)がってゆくのであります。

 こうしてこれらの教えは、前に述(の)べたような隠遁(いんとん)状態に留(とど)まることなく、世界的となります。このようなグループには、全人類の神の外(ほか)にはいかなる首長(しゅちょう)も必要でなく、又、如何(いか)なる形式を宗派も信条(しんじょう)も必要ではありません。

 自分の真我がキリストであることを宣言(せんげん)し、自我(じが)に対して、思いと言葉と行いを以(もっ)てこの理想に忠実(ちゅうじつ)に生きるように命(めい)じなさい。そうすればまさしくキリストを懐孕(かいよう)〔子をはらむこと〕し、且(か)つ生み出すことになるのです。これらのバイブレーションが一旦(いったん)確立されると、たとえ当人(とうにん)はその存在に気づかなくても、決して減(げん)ずるものではありません。しかし、それをずっと続けていると、遂(つい)には自分でもこのバイブレーションに気づくようになります。このことは他の何物(なにもの)にもまさる大いなる体験です。このようにして確立された霊的(れいてき)焦点(しょうてん)は真実であって、決して消え去るものではない。終局(しゅうきょく)においては、人類全体がここに帰着(きちゃく)しなければならないのであります。このような人に対してこそ宇宙の全貌(ぜんぼう)が開(ひら)かれ、このような人々にはもはや何(なん)らの制約(せいやく)も通用しない。人間の視力では今申(もう)したバイブレーションは見えないが、それが視(み)れるようにすることはできます。人間の視力(しりょく)の範囲内では、今ここにわたしたち以外には人がいないように思われるが、しかし実際にはいるのであって、わたしたちはその人が見えるのです。遥々(はるばる)ここまでの道中(どうちゅう)を歩き、或(あるい)は乗り越(こ)えてあなたたちは、これまで時々(ときどき)この事を垣間(かいま)みてきました。そうでなければここには出席しなかった筈(はず)です。この大会のように人類が団結(だんけつ)すれば、ゴッグとマゴッグの斗(たたか)いやアルマゲドンの斗(たたか)いのような殺し合いができるでしょうか。人間の造った律法(りっぽう)が現(あら)われたからといって、あらゆる力を支配し、しかもその力と共存(きょうぞん)する神の法則を蹂躙(じゅうりん)するだけの力が出てくるでしょうか。そのようなことはあり得(え)ない。ところがここでは、只(ただ)一人(ひとり)の神人(しんじん)が『否(いな)』と言いさえすれば、万事がその通りに運(はこ)ぶ、それは、すべてが一体であり、すべてが一体となって感応(かんのう)するからです。別に何か特別の力を揮(ふる)う必要もないのです。低い魂の低いバイブレーションの人々が害意(がいい)をこめた力を出しても、こちらがその力を集中してそれに真実の愛と祝福をこめて、本人達に送り返すことができるのです。もしもそれに抵抗するならば彼らは自滅するだけです。愛のエネルギーを送り返す方では、腕一本だって挙(あ)げる必要はないのです。

 人間の中のキリスト(神我)が地上における人間の到来はるか以前に確立されていたものであり、キリストとしての人間はいまだ嘗(かつ)て神から離れたことのないことを、かの大ピラミッドが金剛(こんごう)不壊(ふえ)の記念碑(ひ)の形で、世々(よよ)代々(だいだい)を通じて、人類へ証(あかし)する証人(しょうにん)として屹立(きつりつ)しているよに、これらのグループたちもまた、厳然(げんぜん)として存在を続けているのであります。この大いなるピラミッドがこういう意味での証人(しょうにん)である事実は、その年代、形態(けいたい)の純粋性、構造ならびに知識上の価値などによって十分に立証(りっしょう)されており、偉大なるピラミッドと呼ばれて幾万歳(いくまんさい)もの間保存されてきているのであります。この巨大な物塊(マス)の中には科学上の知識が組み込まれており、人間がそれを解明(かいめい)するためには科学に精通(せいつう)しなければならないのであるが、しかし何も人間の科学を進歩させるためにこの知識がそこに駆使(くし)されたのではありません。

 その歴史の古さと驚くべき構造は、人類にとって神秘として、取っておかれてきました。その巨(きょ)塊(かい)の中には宇宙の秘密(ひみつ)が明(あきら)かにされています。その表現はこれすべて精確(せいかく)な術語(じゅつご)〔専門用語〕と精密(せいみつ)科学(かがく)の方法を以(もっ)てなされている。このことは実は、前からそう予定されていたのであり、人間がこのピラミッドの意義を悟って、完全に神と融合した神のキリスト(神我)として、円満調和に完成するように、その方向に働きかけているのであります。それが達成された暁(あかつき)にこそ、偉大なるピラミッドの上に始めて冠(かんむり)石(いし)が置かれるでありましょう」。