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カゴメ唄 (真理を意味している唄です。天界から作者の意識を通し伝えられ作られた唄)
かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?
かごめかごめ 籠の中の鳥は (籠とは人間・肉体のこと、籠の中の鳥とは人の心の中にある真我のこと)
いついつ出やる 夜明けの晩に (夜明前の一番暗い時、暗い今の時代のこと)
鶴と亀が滑った (真我と自我が交代した時・霊主体従と体主霊従)
後ろの正面だあれ? (後ろの正面とは本物の自分こと・神我)
地上界の個という人間意識が前面に出ている為に魂は眠り内在の愛が働けなくなり沈黙し、心の中に閉じ込められた状態です。その愛は何時心の奥底から出られるのか、自我意識がら真我意識へと変わった時、背後にいる本物の自分の正体を知り背後に光(仏像等で光輪)を発するということです。背後の光により映し出されている肉体は影の存在で、映し出しているのが本物の我であり、後ろの正面が本当の正面であるということです。※かごめとは竹で丸く編んだ1メートル位の籠のことです。昔は庭先で鶏を飼う時逃げないように、また猫等の外的から守る為に上からかぶせる籠のことです。
「かごめ かごめ」とはダビデの星(神と人間の一体の象徴図)で、この唄の「鶴」は伊勢のことで「亀」は出雲のこと。
鳥(導きの象徴)の導きで 一体いつになったら「後ろの正面」に出会うのか?
夜明けの晩に鶴と亀が統(す)べるとは、滑(すべ)るではなく統合することです。
陰陽・善悪・男女・アマテラスと大国主、天と地、魂と心(mind(マインド))など、すべての二極が統(す)べる、つまりすべてが一つに統合する年に私たちは生きていることになります。
「夜明けの晩」とは朝と夜の境目… つまりマインドのエゴで生きている今と神と繋(つな)がった神の国との境目のアセンションを間近に控(ひか)えた今この秋(とき)(Be(ビイ) Here(ヒア) Now(ナウ))です。(「秋」とは、五穀の実る最も重要な“時”を象徴)
それが合体したのがダビデの星の意味です(正三角形が人間、逆三角形が神)。
この歌の作者空海(弘法大師)は大変革の今に備えこの歌の中に日本民族の魂に向けてメッセージを残したと考えられます。
本当の自分を思い出せ、光の子としての魂の役割を思い出せとのメッセージを残したのです。
mind(マインド)の中に佇(たたず)んでいると後ろの正面が誰だか観えないからです。
後ろの正面が誰なのかを思い出す、それこそがこの歌のメッセージとする真髄(しんずい)なのです。
目に手を当てて座りこんだ鬼を何人もの子供達が手を結んび円になり回ります。
そして止まったところで鬼の後ろの正面が誰かを当てろと歌います。
鬼が自分の後ろの正面が自分以外の「〇〇ちゃん」だと言って当てようと勘違いしている限り、後ろの正面が本当は誰なのかを当てることができません。
それでは永遠に鬼(おに)(mind(マインド)のこと)から逃れることはできず、本当の自分を失いながらずっと幻想の中の鬼を演じて彷徨い続けなければなりません。
もう鬼を演じるのは止めて魂を演じなければなりません…
空海はそう言っているのではないでしょうか。
後ろの正面とは、三次元の自分を背後から正面を向いて見詰めている深淵である本当の自分、魂のネットワークである全体意識です。
(3次元的には籠神社(このじんじゃ)で、伊勢神宮の外宮(げくう)と出雲大社の後ろを辿(たど)ると籠神社(このじんじゃ)に当たる)
いま宇宙の大変革が起きようとしています。
そのために、私たち日本民族の魂の琴線(きんせん)(人の心の奥に秘められている真情)に触れるような霊的根源の変化が徐々(じょじょ)にですが、現象界に及ぶ可能性が大きい(既に現象化されている)のです。
「鶴と亀が滑った」この「すべる」という言葉、実は「統べる=統一する」という意味。 鶴は陰の象徴、即ち女性を表し、亀は陽の象徴、即ち男性を表します。※多産という特徴から、亀を女性の象徴であると考える場合もあります。また、固い甲羅に護られているところから「女性の貞節の象徴」として捉えることもあるようです。鶴と亀、どちらを男女になぞらえるのかは、ここではあまり重要視していません。どちらにしても、鶴と亀はセットで長寿の象徴であり、男女の両方を表すものとして捉えています。つまり、「鶴と亀が統べる」とは、「女性性と男性性が統合する(目覚める・覚醒する)」という意味に捉えられるのです。
「かごめかごめ」 かごめ=籠女 つまり、籠(古い慣習・価値観・固定観念など)に囲まれている女性 こちらは陰(マイナス)のイメージ 同時に、かごめ=加護奴でもあり、神・自然の加護を受けている(女性性に護られている)男性とも言える こちらは陽(プラス)のイメージ 陰陽・男女の両方の意味が同時に表現されている。さらに、籠目=籠の編み目=六芒星(上向き・下向き2つの三角形が重なってできた六角形の星型図形)として捉えることもできる。 六芒星に含まれる上向きの三角形は男性性の象徴。 下向きの三角形は女性性の象徴(天の逆鉾) つまり、男性性と女性性が合わさった神秘的な状態(陰陽の融合)を示しているとも言える。
「籠の中の鳥は」 鳥は鳥居、つまり神社 これもまた、「全てを生み出す神秘性」を表している。 さらに、この部分でもまた、籠=囲みという陰のイメージと加護という陽のイメージの両方を内在させている。 つまり、ここまでの歌詞では、「神秘的で護られていながら、その真価を閉ざされている存在」について歌われている。
「いついつ出やる」 そんな神秘的でありながら、囲まれ、閉ざされている存在が、いつ、この宇宙にその真価を表すのか?という問いかけ
「夜明けの晩に」 夜が明けたのに晩である。つまり、矛盾した事象の暗喩。この宇宙に存在している相反する2つの事象が、同時に存在していることを示しており、陰陽が融合する瞬間のことを表している。 また、天照大神が天岩戸に隠れて世界が闇に包まれた、という神話の象徴とも言える。 つまり、籠女と同様に、閉ざされた女性性についての暗喩でもある。
「鶴と亀がすべった」 女性性と男性性が触れ合うことで、ふたつが統合され、融合して新たな宇宙が創造されることを表す。
「うしろの正面だあれ」 ある意味で、ここが最も重要なパート うしろの正面とは、自分では見えないけれども確かに存在している自分の暗部のこと。 つまり、自分ひとりでは見つけられず、その存在に薄々は気づいていても見て見ぬフリをしてきた部分。
鶴と亀、つまり、ひとりではなく、パートナーや他者の存在が鏡となることで、始めて浮き彫りになる本来の自分のこと。
相反する2つの存在が1つに統合される時、つまり、男と女が融合する時、そこに本来の自分(在るがままの神秘的で崇高な存在)が発現する。 前後半を通してみると、この歌は次のように解釈されます。
「神秘的で護られている存在でありながら、その真価を閉ざされている存在(陰陽が融合された、全てを生み出す力を持った神)は、いつ、この宇宙にその真価を表すのか? それは、相反する2つの存在が1つに統合される時、つまり、男と女が融合する時である。 その融合が生まれた瞬間、男女の内側に眠っていた本来の自分(在るがままの神秘的で崇高な存在)がこの宇宙に発現する。 つまり、男女は1つになることで、宇宙を歓びに満たす神へと深化して、その真価を発揮できる存在へと進化する。」
こんな壮大な世界観が見えたのです。
そして、男性が進化して真士となり、宇宙と女性を歓ばせる存在になるためには、閉ざされた女性性(籠女(かごめ))の開花が必要だということが、この歌の世界観を通して改めて腑に落ちました。 では、女性性の開花は何によって引き起こされるのでしょうか?
それは、自分の宇宙=子宮スペース”を拡げる。という言葉に鍵があります。女性であれば自分ひとりで実現することが可能。
真士(しんし)が発揮すべき3つの“いかす”力」に触れた時、子宮スペースの拡大は加速化されます。
真の男性=真士(しんし)と、真の女性=祝女(しゅくじょ)は、どちらが先に存在するのかを論じる必要はありません。
たまたま祝女に出逢えたラッキーな男性は、思いもよらないスピードで真士へと進化を遂げます。
たまたま真士に出逢えたラッキーな女性は、思いもよらないスピードで祝女へと進化を遂げます。
まだ目覚めていない男女が出逢ったとしても、どちらかが真士・祝女の生き方・5大原則を知ってさえいれば、お互いを進化させ、「うしろの正面」にいる本来の自分を見つけることができる。
「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた魂」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった・統合」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「本当自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っている。
カゴメ唄の秘密
この唄は、本来、籠神社の隠し歌であり、そこには日本の国家成立にかかわる重大な秘密が暗号として隠されている。
この極秘伝には、この歌に登場する「鶴」は伊雑宮を指し、「亀」は籠神社を指すとあった。
以前、八咫烏から籠神社と伊雑宮は、それぞれ「阿(あ)」であり「吽(うん)」であると告げられていた。
それに基づいて、伊雑宮の伝承に登場する稲穂をくわえた真鶴が伊雑宮を象徴し、そして亀は籠神社の伝承に登場する倭宿弥命の乗っていた海亀を暗示していると考えていたからだ。
籠とは、祭神である彦火明命が竹で編んだ籠船で竜宮へ行った故事からつけられた。 この籠船が亀に変わったのは、恐らくどちらも六芒星を表すからだろう。カゴメは六芒星で、亀の甲羅は六角形である。ちなみに、ここからカゴメ歌の「鶴と亀」の意味が分かるかもしれない(八咫烏は童謡など人目につきやすいところやものに秘中の秘を隠す)。
亀が籠神社を象徴するとすれば、鶴は伊勢神宮だろう(『倭姫命世記』によると、むかしある秋に、伊雑の地で鶴の鳴き声が聞こえ、その地へ行ってみると、稲の一つの根から千の穂が実ってゐて、これは良い稲だと、伊佐波登美神が抜穂にして神宮に献ったといふ。その場所に祭られた「伊佐波登美之神宮」が、伊雑宮のことである。
八咫烏は、この2つの神社を「阿吽(あうん)」だと述べた。つまり、それはAとZ、アルファとオメガ、はじめと終わり。籠神社にも伊勢神宮にも六芒星がある。六芒星は籠神社の奥宮・真名井神社と伊勢神宮の別宮・伊雑宮の社紋である。六芒星であるダビデの星は、天と地の合体、調和、和解を象徴し、それは、イエス・キリストのあがないの業を表す。
鶴と亀と、それぞれが象徴する籠神社(阿(あ))と伊勢神宮(吽(うん))は、合わさって、「私はA(アルファ)でありΩ(オメガ)である」と述べたイエス・キリストを表すのではないだろうか。 ある人は、「鶴と亀がすべった」の「すべった」は「統べる」から来ているという。ということは、「イエス・キリストが統治する」という意味になる。 カゴメ歌は、「籠の中の鳥(籠神社の祭神である天照大神=イエス・キリスト)」が「夜明けの晩(新しい時代の始まり)に出て」、「鶴と亀がすべった(イエス・キリストが統治した)」ということを意味するのかもしれない。
かごめかごめ かごの中の とりは いついつでやる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった うしろの正面だあれ
籠目、籠目、籠の中(六芒星のグリッドに護られた地球の)十理(真理)はいつ現れるのか
夜明けの晩に(夜と朝が同時に存在する、時空を超えた日に)
鶴(天)と亀(地)が統べった(二極が統一、二極のどちらかに偏るのではなく、中庸を生きるとき)
後ろの正面には誰がいると思う?(空間はすべてつながっており、クラインの壷のように、外側と思っていたものは内側に、内側と思っていたものは外側につながっている、後ろは実は正面でもあり、あなたの現象は私の心の現われであり、私の心の中にあるものはあなたという現象を現す。 つまり、あなたは私、私はあなた、すべてはひとつである。)
※籠目は六芒星のかたどるように網目が組まれていて、六芒星の形は、代表的な魔法陣。古来より神秘力を秘めた図形といわれ、とても強い結界をはることができるようです。
そして、地球の周りには、クリスタルグリッドと呼ばれる、透明なグリッドが張り巡らされていて、地球のエネルギーを護っているらしいのです。
これは、世界のあちこちで、霊感が強い人たち(とくに子ども)が目にしていて、都度修復しているらしいのです。 (まあ、これについては、「なにがみえてる」のブログや本で紹介されていますし、ブロガーのじぇいど♪さんがこのことを書いた後に、「ミムジー」という映画が公開され、そこにクリスタルグリッドのお話が出てきたりしました。)
<抜粋>
六芒星(ろくぼうせい=hexagram ヘキサグラム)
正三角形△と逆三角形▽が合わさった星の形
「六芒星」は2つのピラミッド・パワーが集合した図形ともいわれる。
「男性性と女性性の融合」「霊体と肉体の結合」「火と水の結合」「光と闇の統合」など、相対するエネルギーの調和を表し、大宇宙を表すともいわれている。
別名「ダビデの星」「ダビデの盾」「ソロモンの封印」「ソロモンの印章」
現代のイスラエルの国旗にも使われている。
代表的な魔法陣。古来より神秘力を秘めた図形といわれ、とても強い結界をはることができるようです。
これは単にイスラエルだけでなく、曼荼羅や、伊勢神宮と鞍馬寺にもこの六芒星のマークが存在し、古くから世界のあちこちで使われていたようです。 そして、日本では、「籠目」という文様があり、竹編みの籠の編み目を図案化したもので、魔除けとしてこの図形を用いることがあったそうです。
※とり=とうり=十理 10は完結を意味する数字なので、十の真理→十理→すべての真理
※三次元では二元論で成り立っている。
二元論は善と悪(陽と陰など)、必ずひとつでは存在しえず、善の背中に悪があり、二極のどちらかに傾いても、相手を引き寄せる、わかりやすいたとえでいえば、正義感がとても強い人は、その正義を生かす問題を引き寄せる、常に戦う相手を引き寄せる、など。 正義感が「強すぎても」よくないのです。
また、問題が生まれれば、同時に解決方法も生まれるとも言われています。
二極の性質、それらは引き合うということ、そのことを知って、真ん中を生きる=中庸を生きると、意識が三次元より上へ上昇し、人生がうまくいく。
(中庸 = かたよることなく、常にかわらないこと。 過不足がなく調和がとれていること。 またそのさま。)
※クラインの壷はこちら (クラインの例えは私の引用です。)
心の中の現象が現実世界を映し出す、とは、「魂のしくみ」シリーズでずーっと述べてきたことですが・・・
つまり、自分が接する相手の態度や現象は、自分の心の中にあるものがそのまま現れている、ということ。
わかりやすいたとえで言うと、幼少のときの、本当は、お父さん、もしくは、お母さんにいいたかったこと、してもらいたかったこと、してほしくなかったこと、それを解決せずに、ずーっと抱え込んで(ずーっと本音を隠してきて)、抱え込んでいることもいつのまに忘れて大人になり、別の人を相手に引き寄せて、同じ「その問題」を繰り返している、ということ。
つまり、幼少時代の「その問題」の解決のために相手を引き寄せている、ということ。
それに気づいて「ああそうだったのか!」と理解して手放してあげると、心の中にそれが消えているので、現象が変わるということ。
まさに、私はあなた、あなたは私、なのですね。
マヤ暦のカレンダーが2012年12月21日だか、22だか、23だかに終わっているのは(どの日なのか、なんかいろいろ説があるのでわかりません)、世界が滅亡するのではなくて、ひとつのサイクルが終わり、また新しいサイクルが始まるため、そこでカレンダーが終わっているようです。
(ここでも以前、NHKのドキュメンタリーの紹介とともに書いています。2011年11月11日 満月 & スターゲート (おまけ:マヤ歴 2012年12月23日))
また、その時空を超越する、という意味でもそこでカレンダーを終わりにしたのかもしれませんね。
サイキックで過去や未来、現在の状態をさぐるとき、そのアクセスする情報源を「アカシックレコード」と呼ばれますが、アカシックレコードでは過去も未来も現在も同時に存在するのですよね。 それがもしかしたら、「夜明けの晩」の意味を表すのかもしれない、と私は思っています。
便宜上、人間が時間を作り、過去と未来と今、という概念を作っていますが、実は、実際3次元に存在するのは、今この瞬間のみで、過去は記憶、未来はこれからくるもの、ですよね。
前に、魔法をかけるのは「今この瞬間しかない」とお伝えしましたが、今の自分の思考が未来の現象を作るのです。 (魔法=引き寄せの法則、イメージトレーニング)
今を生きる、というタイトルで、魂のしくみシリーズで書いたこともありますが・・ そちらもよかったらあわせて読んでみてください♪
もうひとついうと、五次元では、過去も未来も今も同時に存在します。
だから、体験したことのない他人の過去や、だれも知らない未来を、透視力などの力で辿ることができるのです。
もしかしたら、そのことをマヤの人も伝えたかったのかもしれない。
五次元はそんな時空を超えた世界だよ・・・って。