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正法眼蔵 第七章『山水経』
而今(しきん)の山水(さんすい)は、古佛(こぶつ)の道(どう)現成(げんじょう)なり。ともに法位(諸法の安住する位)に住(じゅう)して、究盡(きゅうじん)の功徳(くどく)を成(じょう)ぜり。空劫已前(くうこういぜん)(永遠にも比せられるような極めて長い昔)の消息なるがゆゑに、而今の活計(かっけ)なり。朕兆未萌(ちんちょうみぼう)の自己(じこ)なるがゆゑに、現成(げんじょう)の透脱(ちょうとつ)(透体(ちょうたい)脱落(とつらく)=心身(しんしん)脱落(だつらく))なり。山の諸功徳 高廣(こうこう)なるをもて、乘雲(じょううん)の道かならず山より通達(つうたつ)す、順風の妙功(みょうくう)さだめて山より透脱するなり。
大陽山楷和尚示衆云(だいようざんかいおしょうじしゅうにいわく)、青山常運歩(せいざんつねにうんぽし)、石女夜生児(せきじょよるこをうむ)。
山はそなはるべき功徳の虧闕(きけち)する(欠ける)ことなし。このゆゑ(え)に常(じょう)安住(あんじゅう)なり、常運歩(じょううんぽ)なり。その運歩の功徳、まさに審細(しんさい)に參學(さんがく)すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆゑに、人間の行歩(ぎょうぶ)におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ。
いま佛祖(ぶっそ)の説道(せつどう)、すでに運歩(うんぽ)を指示す、これその得本(とくほん)なり。常運歩(じょううんぽ)の示衆(じしゅう)を究辨(きゅうはん)すべし。運歩のゆゑ(え)に常(つね)なり。山の運歩は其疾如風(ごしつにょふう)(其(その)疾(はや)きこと風の如し)よりもすみやかなれども、山中人(さんちゅうにん)は不覺不知(ふかくふち)なり、山中(さんちゅう)とは世界裏(うら)の花開(かかい)なり。山(さん)外人(げにん)は不覺(ふかく)不知(ふち)なり、山をみる眼目(がんもく)あらざる人は、不覺不知、不見不聞(ふけんふもん)、這箇道理(しゃこどうり)(これその道理)なり。もし山の運歩を疑著(ぎぢゃ)(疑(うたが)うこと)するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに山の運歩をもしるべきなり。
山すでに有情(うじょう)にあらず、非情(ひじょう)にあらず。自己すでに有(ゆう)にあらず、非(ひ)にあらず。いま山の運歩を疑著せんことうべからず。いく法界(ほうかい)を量局(りょうこく)(範囲)として山を照鑑(しょうかん)(明らかに見る)すべしとしらず。山の運歩、および自己の運歩、あきらかに撿點(けんてん)(点検)すべきなり。退歩歩退(たいほほたい)、ともに撿點あるべし。
未朕兆(みちんちょう)の正當時(しょうとうじ)、および空王那畔(くうおうなはん)より、進歩退歩に、運歩しばらくもやまざること、撿點すべし。運歩もし休(きゅう)することあらば、仏祖不出現なり。運歩もし窮極(ぐうごく)あらば、佛法不到今日ならん。進歩いまだやまず、退歩いまだやまず。進歩のとき退歩に乖向(けこう)せず、退歩のとき進歩を乖向せず。この功徳を山流(さんりゅう)とし、流山(りゅうざん)とす。
法位(ほうい) 仏語。諸法の安住する位。真如(しんにょ)のこと。
真如(しんにょ) 《〈梵〉tathatāの訳》仏語。ありのままの姿。万物の本体としての、永久不変の真理。宇宙万有にあまねく存在する根元的な実体。法性(ほっしょう)。実相。
法性(ほっしょう) 実相,真如(しんにょ) ,法界(ほっかい) ,涅槃(ねはん) などと同義語。すべての存在には実体的なものは何も存在しないという真理そのもの。
法界(ほっかい) (1) 法(ほう)はかくあるべき真理であり,法界とはあるがままの事理であり,真如(しんにょ)ともいわれる。界(かい)(dhātu(ダートゥ))は物体を構成する根本的な要素。このように法を根本的な要素とみなして,それを空観で基礎づけるところに仏教思想の特性がある。法界を理念として世界観を打立てたのは華厳宗である。法界を4つの観点からとらえて,差別のある現象界の事法界,宇宙のありようすべて真如であるとする理法界,現象界と実在とは一体不二であるとする理事無礙法界,現象界が一と多との無尽な縁起の関係にあるとする事事無礙法界の法界縁起をきわめ,四法界観とした。そのほか経論により三法界,地獄餓鬼などの十法界,観門十法界,密教十法界などの分類がある。 (2) 部派仏教時代には六根,六境,六識を合わせた十八界としたが,その一つとしての意識の対象を法界といった。これは狭義の法界である。
法位(ほうい)・真如(しんにょ)・法性(ほっしょう)・法界(ほっかい)・涅槃(ねはん)・実相(じっそう)
界(かい) 《〈梵〉dhātuの訳。部類・要素・基礎などの意》仏語。
㋐人間存在の構成要素として類別の範疇(はんちゅう)となるもの。六根と六境と六識のそれぞれを界として、十八界をたてる。
㋑宇宙の構成要素。地・水・火・風・空・識の六大(ろくだい)のこと。六界。
㋒領域または世界。欲界・色界・無色界の三界。
須弥山(しゅみせん)(旧字体:須彌山、サンスクリット:Sumeru(シュメール))は、古代インドの世界観の中で中心にそびえる山。インド神話のメール山、スメール山(su- は「善」を意味する接頭辞)の漢字音訳語。
究尽(きゅうじん) 究め尽くすこと。存在として充足すること。真理・道理を徹見し尽くすこと。
透脱(ちょうとつ) 仏語。悟ること。脱落。透体脱落。
透体脱落( ちょうたいとつらく) 自己と自分の周りの世界が一体となり、自己と世界との境が消え去り、自即他、他即自、あるいは自も他もなく一なる意識として透明な意識として存在している、そんな感覚。
身心脱落(しんしんだつらく) 身と心が抜け落ちる--これはおそらく、自分の身と心が自分自身から抜け落ちる。
虧(き) 音読み キ 訓読み か-ける 意味 かける。かく。不足する。そこなう。
闕(けつ) [音]ケツ [訓]かける[意味]宮城の門。また、宮城。(「欠」と通用)不足する。かける。あやまち。
虧闕(きけち) 意味としては、虧も闕も、欠けること。
参学(さんがく) 座禅して仏道を学ぶこと。
究(きゅう) [音]キュウ[訓]きわめる[意味]真理や本質をつかむため、これ以上行けないところまで推し進める。これ以上行けないところ。
辨(はん) 音読み ベン 訓読み わける わきまえる 意味 わける。わきまえる。区別する。
示衆(じしゅう) 師家が学人に対して説法し指導すること。垂示(すいじ)とも。
垂示(すいじ) ①学人に対して、師家が教えを説くこと。示衆や垂語に同じ。なお、近年では特に貫首を始めとする尊宿から教えを賜ることを「御垂示」として尊重している。②語録の本則を提示する前の冒頭で、その一章の意義を示す言葉。釣語や索語と同じ。例えば、『碧巌録』では垂示・本則・著語・評唱から成立している。
跋文(ばつぶん) 本文とは別に、書物の終わりにしるす文章。あとがき。跋(ばつ)。
跋(ばつ) 書物や書画の巻物の末尾に記す文。後書き。跋(ばつ)文(ぶん)。⇔序。草を踏んで野山を歩き回る。「跋渉(ばっしょう)」荒々しく踏みにじる。「跋扈(ばっこ)」書物の末尾に記す文章。あとがき。
黄金時代 白銀時代 赤銅時代 黒鉄時代 泥土世界
疾如風(しつにょかぜ) 疾(はや)きこと風の如(ごと)く
照鑑(しょうかん) 神仏などが明らかに見ること。照覧。
消息(しょうそく) 消はきえる。息はうまれる。消息は動静、進退、起居、様子の意。
活計(かつけ) 生き生きとしたいとなみ、生き生きとした活動。
透脱(ちょうとつ) 透徹解脱。
仏祖の説道 仏祖とはここでは芙蓉道楷(ふようどうかい)禅師(ぜんじ)を指している。 芙蓉道楷禅師の示衆。
得本(とくほん)なり 本家本元である。根本である。
究弁(きゅうべん) 参究し弁別すること。
其疾如風(ごしつにょふう) その疾(はや)きこと風の如しの意味。
世界裏(せかいうら)の華開(けかい) 我々の心の華(悟りの華)の世界が花開くこと。
山中人(さんちゅうにん) 青山常連歩を大悟徹底した人。
山中人(さんちゅうにん)は不覚不知(ふかくふち)なり 青山常連歩を大悟徹底した人は悟りが自己と一体化しているので悟りらしいものが意識に昇らず不覚不知のように見える。
山外人(さんげにん) 青山常連歩が分からない凡夫。無眼子。
山外人(さんげにん)は不覚不知(ふかくふち)なり 山外人は文字通り青山常連歩が分からない凡夫である。
いく法界(ほうかい) 無尽法界。無限の法界。
有情(うじょう)にあらず、非情(ひじょう)にあらず 有情(生物)、非情(無生物)の分別差別が起こる以前の絶対の真実である。
量局(りょうこく) 範囲。くぎり。
照鑑(しょうかん) 参究。
退歩歩退(たいほほたい)ともに検点(けんてん)あるべし 進歩だけではなく退歩も点検しなければならない。
撿(けん) 音読み ケン。レン 意味 調べる。確認する。細かく調べる。取り締まる。拘束する。
威音王如来(いおんのうにょらい) 法華経 第七巻の "常不軽菩薩品第二十" で説かれる仏(如来)。響き渡る声を持った王の意。その昔、離衰(りすい)という時代の大成(だいじょう)という国にいた仏とされる。最初の威音王が亡くなった後、二万億の仏が現われ、それらはみな同じく威音王を名乗ったとされる。いずれにせよ、威音王は歴史的な根拠や実態はない空想上の過去仏。
乖向(けこう) 乖(け)はそむく。乖向は反対方向に進むこと。
進歩のとき退歩に乖向(けこう)せず 進歩のときは進歩するばかりで退歩に向かいようもない。進歩のときは進歩するばかりである。
退歩のとき進歩を乖向(けこう)せず 退歩のときは退歩するばかりで進歩に向かいようもない。退歩のときは退歩するばかりである。