ブッダ菩提樹で悟りを開いたときに悪魔からの誘惑(イニシエーション)

そのブッダが35歳のときに悟りを得る直前に、悪魔マーラがやってきて、あれこれ誘惑して、正しい道から外させようとします。

ブッダ(目覚めた人)になるとか、解脱を得るなんて、できるものではないよ。それよりもこの世の支配者として皇帝になればいいではないか。でなければ天上にのぼってわたしの位につくがよい」。次にマーラは若さと美貌を誇る自分の娘さんたちにブッダを「さあ、いっしょに遊びましょう。瞑想して悟るなんて無駄なことよ。と言って誘惑させますが、ブッダは全く心を動かさなかったのです。すると悪魔マーラがいるあいだは近づいてこなかった天上の神々がブッダの周りにやってきて、色とりどりの花をまきちらしてブッダを祝福しました。おもしろいことに悪魔マーラとその仲間たちさえも、青白い顔をして神々の間から顔をのぞかせ、いっしょになってブッダの心意気を喜んだのです。これらの話は一見夢の中の物語にみえますが、そうではありません。この悪魔がブッダを誘惑するシーンは、新約聖書でイエスがやはり預言者になるときに同様のシーンが見られます。誘惑に勝って悪魔が離れ去ると、天使がやってくるところも同じなのです。どうしてこのような一致が見られるのでしょうか。聖書にはこう書かれています。「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると誘惑するものが来て、イエスにいった。”神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。…もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これ(繁栄した国々)をみんな与えよう。するとイエスは言われた。”退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に使えよと書いてある。” そこで悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」(マタイによる福音書

(般若心経)

聖観音菩薩が行を行じて、その完成である深い般 若波羅蜜多に於いて「五蘊に対する執着が空虚となった理想の自分(空性)こそが自分の実体である」 と観た。舎利弗よ、ここ(般若波羅蜜多)では、現実の身 体が理想の空性であり、理想の空性が現実の身体な のである。現実の身体は理想の空性を離れては無く、 理想の空性は現実の身体を離れては無い。この身体 がその空性なのであり、この空性がその身体なので ある。受想行識という心の働きも同様である。舎利弗よ、ここ(般若波羅蜜多)では、一切諸法 (すなわち五蘊)は空性という理想の姿にあり、生ずることもなく、滅することもない。垢(けが)れたもので はなく、垢れを離れたものでもなく、損減すること もなく、円満することもない。この故に舎利弗よ、空性には、色も無く、受も無 く、想も無く、行も無く、識も無く、眼耳鼻舌身意 も無く、色声香味触法も無く、眼識界から意識界までの六識界も無く、明も無明も無く、明の尽きることも無明の尽きることも無く、乃至、老死も無く、 老死の尽きることも無く、苦集滅道も無く、智も無く、得も無い。この故に、菩薩の般若波羅蜜多を依所とすれば、過去の縄は解き放たれ、心は煩悩から自由になる。 心が煩惱から自由な存在だから、恐れが無く、循 環を離れ超越して、涅槃に至る。過去現在未来の一 切の諸仏は、般若波羅蜜多を依り所として無上正等 覚を現等覚された。故に知られるべきである、般若波羅蜜多は大いなる真言、大いなる明である真言、無上の真言、無等 等の真言であり、一切の苦を鎮める。