霊主体従とは、人間の内分が神かみに向って開ひらけ、唯(ただ)神を愛し、神を理解し、善徳を積み、真の智慧を輝かし、信の真徳に居り、外的の事物に些(すこ)しも拘泥(こうでい)せざる状態を云うのである。斯の如き人は所謂地上の天人にして、生きながら天国に籍を置いて居る者で、この精霊を称して本守護神と云うのである。至粋、至純、至美、至善、至愛、至真の徳に居るものでなくては、此の境遇に居る事は出来ぬ。

 

体主霊従とは、人間はどうしても霊界と現界との中間に介在するものである以上は、一方に天国を開き一方に地獄を開いて居るものだ。故に人間どうしても善悪混交美醜互いに交って世の中の神業に奉仕しなくてはならない。併(しか)しこれは、普通一般の善にも非(あら)ず悪にも非(あら)ざる人間の事である。人間は肉体を基礎とし、又終極点とするが故に、外的方面より見て体主霊従と云うのであるが、併(しか)しながら、之を主観的に云えば霊的五分、体的五分、即ち、霊五体五たるべきものである。若し霊を軽んじ体を重んずるに至らば、茲(ここ)に、体五霊五となるのである。同じ体五分霊五分と雖(いえど)も、其の所主の愛が外的なると、内的なるとに依って、霊五体五となり、又体五霊五となるのである。故に霊五体五の人間は、天国に向って内分が開け、体五霊五の人間は、地獄に向って其内分が開けて居るものである。