私たちは微粒子から成り、万物はそのように出来ている、宇宙はそのように出来ている。全ての存在に、神がかり的な何かが潜んでいる。ネイティブアメリカンのように、万物には全てスピリットがあり、自然それ自体がひとつの生命体であるという考え方にも通じる。イコール、私たち自身は、Brahma(ブラフマ)そのものであるとも言える。よって、私たち自身は、SAT(サット)  CHIT(チット)  ANANDA(アーナンダ)であると言える。あなたは誰?と聞かれる。私は○○で、○○、○○の○○。等などいろんな答えが引き出せる。しかし、それは表面的な、生きていく上での便宜にすぎない。本当のあなたは一体誰?つきつめていけば、私ってどんな存在?

Who are You(おまえは誰だ?) I am that I am.  「それ」と呼ばれているところの者、「それ」である。

汝自身を知れ

「下なるものは上の如く、上なるものは下の如し」という「全一の法則」を、この一文が余すところなく表現している。

「全一の法則」 「多即一、一即多」ということ。一者の法則(The(ザ) Law(ロー) of(オブ) One(ワン))とも言う。神人合一、不二一元、万教帰一、アルファαでありオメガΩである。最初と最後、すなわち、「全て」「永遠」という意味。これらも全ておなじことを言っている。マクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(人間)は相似形。フラクタル理論。メビウス帯。プラシーボ効果鰯の頭も信心から。思考が現実を創っている。

私でしかない私。何もかも全て違う私たちひとりひとり。違うようで唯一同じことがある。それは、誰もが永遠の幸福を望んでいるということ。「人間の本質は善である」とダライラマは説いた。そう、そもそも私たちの本質は、幸福と至福の存在である。それが、「SAT  CHIT  ANANDA」。 これは「真我」の状態であり、黙して何の判断も下さないで、傍観者になって物事を見ている状態を意味しています。その傍観者は、今この瞬間にいる「存在」であって、「純粋意識」であり、自由で苦も楽もない「至福」の状態なのです。つまり、私たち自身の存在が純粋な意識として、永遠なる至福であるということです。日々の生活の中で、誰もが『幸せになりたい。』と願い、人生を通して至福を得るべく人々は探求を続けています。しかし、多くの場合、感覚器官を持つ私たちは名前や形などに心が動き、他との比較で自分自身の存在を見失い、不安や迷い不足感に陥ってしまいがちです。自分自身の存在こそが喜びであり、喜びの在るところに自分は在る。自分の内側には何も語らない真我があり、それは常に幸せで輝いている。内なる神に気づくことは、永遠で不変の至福を与えます。