※大和神話に出てくる「天の岩戸」とは、天照大神(真我・光)を隠している自我の扉(自覚の境界線)のことを指しており、その扉の奥に隠れているのが天照大神(真我・光)なのです。力持ちのタヂカラオとは、悟りを目指す強い意志のことをいっており、その意志によって「天の岩戸」を開け、アマテラスと対面しなければならないわけです。「天の岩戸を開けるとは」、瞑想によって自我の扉を開くという意味です。

生命とはであり、無限であり、知恵であり、であり、であり、普遍であり、エネルギーである。私心を捨て素直に対処すれば、良い方向へ進むよう自然はできている。

「目には目を歯には歯を」の本当の意味

「相手を殺せば自分も必ず殺される」「相手を傷つければ自分も必ず傷つけられる」だから、「決して人を傷つけたり殺したりしてはなりません」との戒めの言葉なのです。「やられたらやり返せ」という意味では無い。

『天知る、地知る、我知る、人知る』  

 悪事や不正は必ず発覚するものだというたとえ。誰も知る者がおらず、二人だけの秘密にしようと思っても、天地の神々も知り、自分も相手も知っているのだから、不正は必ず露見するものだということ。後漢の学者・楊震(ようしん)に推されて役人になった王密(おうみつ)が、金十斤(きんじゅっきん)の賄賂を贈ろうとしたとき、「夜なので誰にも気づかれません」と言ったところ、楊震(ようしん)が「天知る、地知る、我知る、子知る。何をか知る無(な)しと謂(い)わんや」と答えたという故事に基づく。「天知る、地知る、子知る、我知る」「天知る、神知る、我知る、子知る」ともいい、「子知る」は「ししる」と読む。

「子」は二人称の人代名詞。

本質(生命・理念)  一(いち)なる理念の主(しゅ)(生命)本質(素材) 

 人の生き方を批判してならないのは、みな自分の理解した世界でしか生きられないから。人を変えることはできません。人を諭(さと)すこともできません。しかし、自分を変えることはできます。自我と真我との戦い、良心と偽心との戦い、サタンとキリストとの戦い、聖戦です。この相対世界とは、創造主が”自己自身を知り、自らが何者であるかを知る為に自己を一時的に分割しつつ観察している状態である。カルマの停止作業とは、「自己を許す・開放させる」ことにより望まれていない循環状況から開放されること。完全な許しとは、其処(そこ)に他者を許す事を含むと同時に、自己への許しも含む。

 怒りからなる思念らが理由となって、その物理的身体複合体内の細胞らが制御不能な状態に陥るといった事態が引起こされている事、結果として、”ガン”が引起される。自己自身に対して非常に深い配慮・尊敬の一つを有する事”も必要とされる。この同情心・共感心(compassion(コンパッション))とは、知恵(wisdom(ウィズダム))という視点(第五密度的態度)から観察された場合には、此れが無分別な行為(folly(フォリー))として観察される事となって参ります。 つまりは、この同情心・共感心・愛とは、第三密度存在達にとっては其処(そこ)から更に先(第四密度)へと進んで行く為の”救済手段”ではありますが、同時に、この同情心・共感心とは、その存在が究極的・最終的に有する事となる所の平衡状態、この中に、”不釣合いの状態”の一つを生み出してしまう所のものである、という事であります。