「自分が周囲の人々によって拒絶されていると感じているのであれば、まず他人を批判し拒絶する自分自身の傾向に気づき、これを修正すること」

「また、劣等感を感じる時には、周囲に対して高慢であった自分自身の性向に気づいて、直ちに改めるべきである」

「他者への嫌悪感は、自分自身への嫌悪感に過ぎない」

「他者への妬みは、自分自身の傲慢さが転化したものに過ぎない」

出来ないというりは、やりたくないという感情がもたらしたものに過ぎない」

「他者への恐れは、他者への敵意の転化したものに過ぎない」

「強烈な自意識は、他者への関心の強さの反作用に過ぎない」

「自分を悩ませているのは、他人や外部の事件ではなく、自分自身に外ならない」

「自分の感情の責任は、自分自身にこそある。それを確認する時、悩みそのものが消え去る」

宇宙の進化戦略(宇宙の理念・摂理)に反する行為

利己的な目的や素材的(物質主義・合理主義・分割意識)な領域のみ執着する人々は、大幅に進化が遅れてしまい、何度も「やり直し」を命じられる不安定な存在。

進化戦略の重要ポイント   外部からの刺激に応じて振動することを学習する事。まずは、低位の形態レベルのボディ「自己」、素材レベルのボディ「自我」でより粗雑で強力な振動を作用させる。人間は進化するに従って「思いやり」「同情」が高まり、「悲しみ」に敏感になり、それ故に「愛」に満ち、「慈悲」深くなってゆく。そして、意識が理念(進化戦略)そのものとなり、時間と空間の形式を超越してゆくことによって、あらゆる因果関係をはっきりと悟り、「一切の事物事象が究極的には全ての人の為になり、何事も良くなってゆく以外にあり得ない」という確信を持つに至る。そこに展開しているものは、歓喜に満ち溢れる至福の世界に他ならない。それが高度に進化した人間の在り方。

     

 素材レベルから形態レベル社会へ上昇するとは、「個人の身体を基盤とする社会」から「個人の意識を基盤とする社会」への移行すること。

 「身体」を行動の基準としてきた社会機構は、全て自己防衛、自己保存の必要性から成立し、発展してきた。身体を基盤とする観念は「現状維持」を至上の価値とします。進化にとって必要なのは、「創造的で自由に拡大する柔軟な意識」である。

 「意識」とは、存在」であり、崇高なる関心崇高意識結実し、崇高なる存在喚起(呼び起こすこと。呼び覚ますこと)する。

宇宙は、人間の意識を通して、宇宙の理念を自己反射的に自覚します。人間の意識とは、宇宙自身の鏡でもあるのです。

人間とは、進化を自覚的に志向(心がその物事を目指し、それに向かうこと)し得る唯一の存在である。進化を、目的をもって追求し得るという点において、人間は「神」と呼ばれるところの宇宙意識「創造主」と同一の属性を有している。人間はどんなことでも心に思い描くことが出来る。そして、思い描いたことは全て実現が可能なのである。進化への道は、理念そのものとなって行動してゆく中に在る。理念そのものと化した者は、「運命」を超越している。

〇 進化前の神我レベル(人間の意識は宇宙と一体)は無知の状態。より高度のあり方を実現させるためプロセスの展開を開始する。「境界」と「限界」を認識し他と区別されて存在する自分と死の観念を持った結果、恐怖感・不安感が発生した。

 意識進化のプロセス(宇宙自身の自己実現)。目的意識の振動によって発生した周波数が元の周波数に戻ることが進化のプロセス(経験を積むことによって進化する)

〇 宇宙の究極の本質はバイプレーション 目的意識に最も近い本質を有するものは「光」➡三次元宇宙の出発点であり、宇宙の基本要素は「物質」ではなく「作用」である。三次元宇宙は光速で拡大し続けている。時間は光速運動の枠組みの内側において各種のレベルで存在(光速では時間が止まる)。光が進化を引き起こす。「プロセスの第一原因」である光には目的性がある。目的意識(の流出)の実体は「純粋作用」である。

選択話法   ➡「私は某コンサートホールで誰それの名曲を聴く」(第三者の視点から配列し直して表現する)

動態風景話法 ➡「会場全体に流れ下る美しく心に響く旋律」(分離した個体はなく、知覚の顕現それ自体を直接的描写する)

 選択話法をはじめとして「主語+述語」を基本とする文体は、人間が宇宙との一体感を喪失し、かつ自然から分離され、自他の区別が生じた意識段階において形成された表現法である。動態風景話法は「述語座標系」に対応しており、それは述語文の「重ね描き」によって成る多次元的話法である。動態風景話法の表現の特長は、全体性の中で事象・事物を把握できること、つまり、「他との関わり」や「全体における作用」と多次元的に事象・事物を把握できることであり、意識のパラダイム・シフトへの展望が開かれる。

 盲人が象をなでて全体像を知ろうとする場合に、あらゆる角度から、対象について知覚像を得ようとすることと同じように、本質を知るためには、多角的にアプローチする必要がある。知覚の現場は、「世界」と「自分」を統合する場であり、そこは主客二元論を峻拒(しゅんきょ)(きっぱりと拒むこと。厳しい態度で断ること)する場として常に回帰すべき「場」である。意識上の能動的知覚によって世界は解釈され、世界は意味付けされ、そして意味が付与されることによって、絶えず新たな世界として創造され続ける。近代科学が描写する世界像は、極めて偏った不完全なもの。「素粒子」や「場」といったものは、受動的五感機能によっては知覚され得ず、「思う」「考える」といった能動的知覚によってのみ初めて存在が認識されるもの。量子理論では、一切の存在とは蓋然性(がいぜんせい)の支配下にある作用であり、流動性においてのみ確認し得る。実体はなく確率的にしか存在し得ないのであり、主語となり得るものはなく、ただ在るのは「作用」即ち「述語」になり得るもののみ。世界が、思いの作用に満ちた心の風景として、動態的で多様性をもった相貌(そうぼう)で現前する時、近代的科学観がもたらした受動的で死物的な世界観から解放され、能動的で活物的な世界観を獲得し得る。