天地(てんち)律法(りっぽう)  霊界物語・霊主体従・第3巻・寅の巻より)

 《内面的五カ条》一霊四魂・五倫五情

一、省(かえり)みる(反省) ・・・・    一霊(主神の直霊)・・・怠ると・・曲霊(地獄霊)

一、恥(はじ)る       ・・・・    荒魂(勇の働き)・・・      争う魂

一、悔(く)いる      ・・・・    和魂(親の働き)・・・      悪(憎む)魂

一、神を畏(おそ)れる    ・・・・    幸魂(愛の働き)・・・      逆らう魂

一、覚(さと)る(悟(さと)る)   ・・・・    奇魂(智の働き)・・・      狂う魂

《外面的大要》

第一に、夫婦の道を厳守(げんしゅ)し、一夫一婦たるべき事。

第二に、神を敬い、長上(ちょうじょう)尊(とおと)み、博(ひろ)く万物を愛する事。

第三に、互(たがい)に「嫉(そね)み」、「謗(そし)り」、「詐(いつわ)り」、「盗み」、「殺す」、等の悪事を為すべからざる事。

  嫉(そね)み(嫉妬(しっと)、人を羨(うらや)む心)、誹(そし)り(人を馬鹿にするなどの悪口、誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)など)、詐(いつわ)り(嘘(うそ)偽(いつわ)り詐欺(さぎ)など)     

(※補足)

世の中に「絶対善」もなければ、「絶対悪」もあるものでない事は、「霊界物語」によって示される通りであるが、強いて「絶対善」を求むるならば、「愛」こそはそれであり、「憎」こそ「絶対悪」である。

五情

    省(かえり)みる = 直(なお)霊(ひ)        恥(はじ)る   = 荒魂(あらみたま) = 勇

                    悔(く)ゆる   和魂(にぎみたま)  =  親

                    畏(おそ)る    幸魂(さちみたま)  =  愛

                    覚(さと)る    奇魂(くしみたま)  =  智

ヒマラヤ聖者生活探求

第十八章 イエスの自己完成への苦斗(くとう)    第三巻
リシの法話が終わると、五、六名の人々がわたしたちのキャンプに向かって歩いてきた。その中にイエスがおられた。この方々がキャンプから少し離れた峯(みね)の斜面に集っていたことに気づいてはいたが、こういう集りはこの土地の周辺にいたるとことにあるので、この方々も何か個人的な相談ごとで集っているのだろうと思っていたのである。
 彼らが近づくと、ウェルドンが起き上がって前に出て、イエスの両手を握りしめた。皆なリシとイエスの親しい友であったので、何らの紹介の必要もなかった。
 ところでわたしたちは、土さえあれば一寸(ちょっと)した片隅(かたすみ)にでも根をおろそうかとする小さな種子のようなものであった。
 御一同は、わたしたちのキャンプ・ファイヤーを囲んでお集まりになった。ウェルドンがイエスに聖書の話をして下さらないでしょうかとお願いしたので、皆が心から賛成した。こうしてイエスは又、話出されたのである。
 「詩篇第二十三編のダビデの祈り、『主(しゅ)はわたしの羊飼、わたしは欠乏することはないであろう』について考えてみよう。これが懇願する祈りでないことにお気づきであろう。この本当の意味は、一大原理〔神〕がわたしたちを歩むべき道へと導き入れること、即(すなわ)ち、大原理がわたしたちの道を先導していること、かくして曲がった道も真直になるということなのである。丁度、羊飼(ひつじか)いが彼を信じ、彼に頼っている羊たちの面倒を見るように、この原理はわたしたちの歩むべき道を準備してくれているのである。かくしてわたしたちは、『わたしたちの父が導くのであるから、わたしは恐れない』と言うことができる。
 よき羊飼いは、羊たちのためになるものがすべて調(ととの)っている場所を知っている。故(ゆえ)にわたしたちは、『わたしは欠乏することはないであろう』と言えるのである。ダビデと共にわたしたちは、『わたしは欠乏する筈がない』と言える。なぜなら、真我即神我(I AM)は、あらゆる悪しきものに対して護られているからである。
 わたしたちの物質的な欠乏はすべて満たされる。緑(みどり)の牧場で十分に養(やしな)われるだけでなく、他にも分け与えるほど豊かに余(あま)るのである。そしてすべての欲望がすでに満たされているという全(まった)き安心感に安らぐ。一切の疲労感も離れ去り、ダビデと共に、『主はわたしを緑の牧場に横たえて、静かなる流れのそばに導き給(たま)う』ということができる。静(しず)けき淵(ふち)の蒼(あお)さは心に大いなる平安を与え、悩める心を静める。
 身も心も安らいでいると、至高(いとたか)き原理の天来(てんらい)のインスピレーションが、生命と力の純光(じゅんこう)で魂を満たす。わたしたちの裡(うち)なる光が、わが主(ロード)、即(すなわ)ち人はすべて一体であるという法則(ロー)の栄光と共に燃える。霊(れい)のこの放射する光がわたしたちの理解力を新(あら)たならしめ、わたしたちの真我を悟り、無限なるものと一体であり、各人(かくじん)が、原理〔神〕の完全なる相(すがた)を顕現するために、この原理〔神〕より送られてきていることを知るに至る。魂の深き静けさの中にあるとき、わたしたちは純粋我(が)に還(かえ)り、自分が全体であることを知る。かくて『彼はわが魂を蘇らしむ。まこと、われ死の蔭(かげ)の谷を歩むとも、われ災いを恐れじ』となる。ここにおいて、わたしたちの肉体は安らぎ、神はわたしたちの心を静め給(たま)い、魂を安らかならしめ給い、光もてわたしたちを照らし給いて、人に仕える者とならしめ給う。かくして、わが裡(うち)に用意は完全に整(ととの)う。然(しか)らば外部よりいかなる試練が来ようと、それによって害されると妄想することが出来ようか。いかなる困難があろうとも、助け手である神は常に手近(てぢか)に臨在(りんざい)し給う。神の中にわたしたちは生き動き、神をわが実存(じつぞん)とするのである。故(ゆえ)にわたしたちは一斉(いっせい)に言う、『すべて善(よ)し』と。
 各人(かくじん)が今や、『神の愛、われを群れの中に導き給う。この群れより、われ迷うとも正しき道を示されて、われを直(なお)したもう。神の愛の力、われを美しきものに引き寄せ給う。かくて災いは、すべてわれに閉(とざ)さる』ということができる。
 今や各人(かくじん)はダビデと共に、『故(ゆえ)、如何(いかん)となれば、なんじわれとともにあり、なんじの鞭(むち)、なんじの棒(ぼう)、そは、わが慰(なぐさ)めなければなり』ということができる。
 この修行を始めるにあたり、あなたたちはまず第一段階をやってみることである。そうすれば真理、即(すなわ)ちすべての生命現象の下(もと)に横たわっている基本的な科学的事実と、それに至る道を覚知するようになる。かくして得(え)る法悦(ほうえつ)や悟りは、一応はこれまでの如何(いか)なる体験をも凌駕(りょうが)する。しかし、やがて恐れや失望がいつのまにか忍び込み、前進が鈍(にぶ)るように思われる。あちらこちらと、もがき求めるが、空(むな)しく敗(やぶ)れ去るかに見える。大願成就のための苦斗(くとう)は人間にとって余(あま)りに大きすぎ、実現しそうにもない。やがて自分の周囲に数多くの失敗が目につき始める。
 そうして言いだす、『いたるところ、神の子らは息絶えつつある。わたしの理想とする久遠(くおん)の生命、平安、調和、完全を一代(いちだい)で成就したものは、一人(ひとり)もいないではないか。所詮(しょせん)、解脱は死後にのみ来るのだ』と。かくて理想を放下(ほうか)し、大方(おおかた)の人々と共に退歩(たいほ)の流れに乗って下へ下へと漂(ただよ)う方(ほう)がましという気に一時的になる。
 また人類意識にはもう一つの難点がある。たとえば霊的に大きな悟境(ごきょう)に達していて成功すべき筈(はず)の人が失敗する。そうして人類意識が更(さら)にまた人間をがんじがらめにしてしまう。それが世代(せだい)を重(かさ)ねてゆくうちにますます強くなる。従(したが)って人間の性質が弱く脆(もろ)くなってゆくのに何の不思議があろう。そうして銘々(めいめい)が次々とその後を追って同じ永遠に廻(まわ)る踏(ふ)み車(ぐるま)へと向かって行(ゆ)く。盲者(もうじゃ)たちがゾロゾロと久遠(くおん)の忘却、大いなる渦巻(うずまき)の中へとつながってゆく。この渦巻の中では肉体が分解腐朽(ふきゅう)するだけでなく、魂まで人間的才覚(さいかく)と誤謬(ごびゅう)という決して容赦(ようしゃ)することなき碾臼(ひきうす)のあいだでくだかれるのである。
 善悪という人間心を次々と積み重ねてゆき、やがてそれが厚い外殻(がいかく)となり、様々(さまざま)の経験を重ねるうちに層一層(そういっそう)と厚くなって、遂(つい)にこれを打ち破って自分の真我を解放するには、超人的な力と大鉄槌とを必要とするようになる。しかし、そのような迂遠(うえん)な方法よりも、この地上一代で解脱する方法があり、その方が遥(はる)かにたやすいことを、わたしやその他の多くの聖者たちのように、あなたたちも悟得(ごとく)して欲しいと思う。
 今述(の)べた殻(から)を打ち破って、真我を見性(けんしょう)するまでは、人はこの渦巻の中で砕(くだ)かれ続けるであろう。自分自身を見事(みごと)に解放して、地平の『より大いなる眺望(ちょうぼう)』を一見(いっけん)するまでは、修行し続けることである。この『より大いなる眺望』を一瞥(いちべつ)したとき、あなたたちの苦斗(くとう)は一旦止(いったんや)み、心の視力(ビジョン)が明(あき)らかとなる。しかし肉体は尚(なお)、殻(から)の中にこもっている。新しく生まれる雛(ひな)の頭は殻から出ていても、なお苦斗をつづけなければならないことを知るがよい。生まれ出る雛が自分の発育の源(みなもと)であった胚卵(はいらん)の格納(かくのう)されている卵殻(らんかく)に穴をあけ、すでに感じ取っていた新しい世界に成(な)り出(い)でる前に、この雛はまず古い殻(から)、環境から完全に自由にならなければならないのである。
 わたしが少年の頃、父と共(とも)に大工の仕事台で、神より生まれたいわゆる人間には、人間として生まれての短い生涯を生き、その短い生涯に人間の造(つく)った律法(おきて)・迷信・因襲という碾臼(ひきうす)に挽(ひ)かれ、かくてせいぜい七十年の生涯を苦労しつづけてから天とやらに行き、当時の僧侶たちの餌食(えじき)となっただまされ易(やす)い心の中以外には、理屈からいっても存在する筈(はず)のないところの、堅琴(たてごと)を弾(ひ)き讃美歌を歌うという光栄(こうえい)ある報(むく)いとやらを受けることよりも、もっと高い生き方があるとわたしが悟ったことには、あなたたちには全(まった)く気がついていない。
 この大きな内(うち)なる目覚め、悟りの後、只(ただ)一人(ひとり)自分自身の中でみづからを友として独居(どっきょ)と沈黙の中に長(なが)き幾(いく)昼夜(ちゅうや)を過ごしたことを、あなたたちは全(まった)く見落としている。やがて自我を克服してわたしの悟り得た光が大いなる明光(めいこう)であり、これこそが創り出される神の子ら、言いかえれば、この世に来るすべての神の子らの道を照らす光であることが解(わか)り、わたしのいたく愛する人々にもこの光を示そうと思ったのに、却(かえ)ってわたしはこの人々の間で遥(はる)かに苦しい経験をしなければならなかったのである。
 悟りによってまだ垣間見ただけではあるが、それでも迷信と不調和と不信の泥沼を超えて見ることのできた新しい生き方を取り上げる代(か)わりに、いっそ今のままでいって大工にでも成り、僧侶達や伝統宗教のいう短い寿命とやらを送(おく)ろうかと思ったりもする、あのわたしにつきまとった大きな誘惑を、あなたたちは全く見落としていいる。
 わたしが覚知した光を示してあげようと努力した人々から受けた苦しみは兎(と)も角(かく)として、自分の親戚縁者からでも幾度となく浴びせかけられた不名誉な侮辱という肉体的苦痛を、あなたたちは完全に見落としている。それに堪えるためには、わたし自身の意志以上の或(あ)る強い意志を要したこと、この意志がわたしを支(ささ)えてこれらの試練を乗り越えさせてくれたことに気づかない。わたしにつきまとった試練と苦斗、誘惑と失敗とは、あなたたちにはほんの少ししか分からないのである。光がそこに在(あ)ると見て知っているのに、まさに消えなんとして最後の一瞬(まばた)きをしているのではないかと思われたり、時としてその最後の光も消え、影(かげ)のみが取って代わっているのかと思われ、拳(こぶし)を握り、歯を喰(く)いしばったことが、どんなに度々(たびたび)あったことか。しかしそのような時でさえ、わたしの裡(うち)には依然として変えることなく強く支配する或るものがあり、そのため、影の背後にも光が依然として輝いていたのである。わたしは前進し、影を捨て、一時小暗(おぐら)くなっただけに却(かえ)って一層明るくさえなった光を見出したのである。その影が結局は十字架となったときでさえ、わたしはその向こうに、いまだ恐れと疑いと迷信とに侵蝕(しんしょく)されている俗世(ぞくせ)の人々の理解を超(こ)えた勝利に輝く朝の目覚めを見ることができたのである。
 神は聖なるものであり、神の像(すがた)に似(に)て生まれた神の真の子たる人間も亦(また)、父のごとくに真の神性であること、且つ又、この神性なるものこそが、すべての人が見て感じている真のキリスト(神我)であり、それは自分自身の内、そしてまた神の子らすべての者の中にあること、それは神の自由意志と自分自身の自由な想念と純粋な動機とによって、まず自分自身に対して証明ができるものであることを、前にも話した実際の体験と接触(せっしょく)とによって知るためには、最後の滴(しずく)まで呑み乾(ほ)そうと、わたしをして固く決意せしめて前進させたのは、実にこの悟りだったのである。
 この真のキリスト(神我)は、この世に来(きた)るすべての子を照(て)らす光である。それはわれらの父なる神のキリスト(神人)であり、且(か)つその中で、わたしたちはすべての久遠の生命と光と愛と真の同胞関係  即ち神と人との真の父子(ふし)関係をもつのである。
 この真の悟り、即ち真理によってこれを見れば、人は王も、女王も、王冠も、法王も、僧侶も要(い)らぬのである。真の悟りを得た人が王であり、女王であり、僧なのであり、すべての人は神と偕(とも)にあるのである。あなたたちはこの真の悟りを拡げて、全宇宙のありとあらゆるものを包容し、神から与えられた創造力をもって、神の為(な)し給うごとくに、それを囲み繞(めぐ)らすがよい」。

ヒマラヤ聖者生活探求

牟尼の説法(牟尼とは聖者のことで、ハスティナプール近在の洞窟(複数)を担当している牟尼の中の一人)

「世界には二つの出来事しかない、人間の意識が確立される以前に既に存在して、現在も実在し未来も存続するものと、人類が人間の智慧で今日まで考えて来、又将来も考えて行くものとの二つである。意識が始まる以前に在ったものは久遠常在であるが、人間の考えるものは無常不確実である。意識以前に在ったものこそ真理であり、人間が真理だと考えるものは人間にとってのみ真理なのである。偉大なる真理の法則が意識されると、今日までの人間の誤った考えは全部雲散霧消してしまう。幾世紀もの時が経ち、進化の過程によって物質の面沙(ベール)が払いのけられると、人類は真理(われわれの所謂、原始宇宙の事実)に回帰しようとする想いが蘇ってくる。そして過去の記憶に満ち、現在の事実に直面しながら、未来への予言を帯びるこれらの想いが、進化し行く全人類の道の上に明瞭に現われてくる。こうして人類は、その誤ちから、今猶(いまなお)厳存する原始の原理に繰返し繰返し呼び戻されるのである。この回帰と繰返しとによって、神の創造が永遠であり、人間そのものも又永遠であることが示される。しかし、人間の造ったものは常に変転し、動、反動の法則の下(もと)にある。人間がその創造に行き過ぎを来すと、かの偉大なる真理の絶対的法則が手を貸して、これら人間の創り出したものを始めのプランに謂(い)わば対面させる。こうして、宇宙の法則は極端な逸脱を決して許さないのである。この法則は常に平等化、平均、調和、を志向して働く。

人間の側のもろもろの偶像や信条にも拘(かか)わらず、この法則は結局人類全体を絶対的実在と完全に融合するように押し込んで行くのである。真理の絶対法則が人間の意識を支配するようになった時には、現実に存在する宇宙の事実と完全には調和せぬ者は、すべて自滅しなければならないのである。人間の考えは、真理が到来すれば、半真理から生まれ出た不完全な自分の創造物などは放棄するように何時(いつ)も造られているものである。

宇宙の絶対法則は十分に満たされなければならない。人間が実在の法則について考えたり、語ったり、或(あるい)は行為をしたりすれば、終局に於(お)いて法則或は実在そのものの中に導入されることは必定(ひつじょう)である。人の中に植え込まれたもので天父によらざるものはすべて根こぎにされるであろう、と古人(こじん)はわれわれに語っている。『盲人を導く盲(め)しいたる者どもを放任せよ。盲人が盲人を導けば、同じ溝(みぞ)の中に落ち込む他ない』のである。

真実と実在とは信じないで俗人の思うものを信ずる者共(ものども)が造りあげた無智、迷妄、幻影の泥沼の中に、全人類という盲人どもが自分で自分を引っ張って来た劫期は急速に終わりつつある。閉ざされつつある世紀(複数)の幻影と迷信との上に興(おこ)ってきた文明も、泥沼の中に沈みつつある。この誤った。もろもろの被造物につきまとう苦悩と悲劇とを経(へ)て、今や新しき人類意識が芽生え急速に展開しつつある。事実、その新しき誕生を迎えて扉が大きく開かれつつあるのである。

意識の一(いち)次元より、現実に存在する宇宙の道の中より高き、より進化でせる次元へと進み行く他には、最早(もはや)ないのである。大宇宙の波動の中で唯(ただ)一(ひと)つ禁じられていることは、人類が自分で思い込んでいるものに固く捉(とら)われ、旧い幻想にやみくもにしがみついて離れず、ために、もっと大きく広く物を考えることが全く出来なくなるような思考の偏向である。 このように自分本位の意識に溺(おぼ)れている者は、アレコレと信じ漁(あさ)ってみたり、いろいろな経験を自然と仕尽(しつ)くしてしまうと、もう二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなる、その時、自然と絶対的法則とが人間を進歩させる慈手を揮(ふる)い出し、病気、苦悩、損失等をへて、遂に人間がそのままで満足し、自分の考え方それ自体の中に迷いという呪(のろ)いのあったことに気づくように仕向けるのである。

もしも或る種族や国民が、実在するものの方ではなく、或(あ)る一部の人間的考え方によって造られたものの方を放下(ほうか)するのを拒(こば)むならば、『法則』がその進歩に介入して、蓄積された彼らの悪(あ)しきバイブレーションが彼ら自身に反射するがままにさせる。するとあらゆる面に戦争、斗争(とうそう)、不調和や死が起って、その種族又は国民は消されてしまう。しかし実はそれも彼らを創造の新しい上昇過程におくためである。かくして人間は人類の意識の始まる以前より実存(じつぞん)していた実在(じつざい)に、新しく接触してやり直すことが出来る。今や文明は偉大なる再建の瞬間に速(すみ)やかに近づきつつある。今は基礎が安定しているように見えるものでも、すべて遠からずして逆転の状態に置かれるであろう。『真理』によって植えつけられてはいない樹木はすべて根こそぎにされよう。現在の社会、政治、経済、宗教、制度の安全な宇宙的転覆(てんぷく)が近づきつつある、それは現在の人類意識の出現以前に既に実存し、今猶(なお)実存するところのものに人類がより一層接近するように、新しき世紀を出現させる余地(よち)を造るであろう。常に実在(じつざい)しつづけた意識を自分自身も又包蔵(ほうぞう)し、それと同じ意識になれることを人間が悟るまで、注意深く、愛と光に満ちた慈愛を以て、真理は待ち続けるであろう。

人類は今や前時代の寝物語(ねものがたり)より一歩前進しつつある、新興の個性や急速に近づきつつある世代の霊的判別力にとっては、かの寝物語の造り成せる幻想どもは、もはや何らの役にも立たぬ。幻想、因襲、迷信どもは終焉に近づきつつある。これらが虚構した文物(ぶんぶつ)また然(しか)りである。古き偶像は小児(しょうに)意識にのみ相応(ふさわ)しく、その小児意識も今や袋小路(ふくろこうじ)に近づきつつある。その幻想もかえって無効となった。それは人類という泣き叫ぶ嬰児(みどりご)をあやして偽(いつわ)りの睡(ねむ)りにつかしめるために、僧侶や説教師(せっきょうし)達がその怪しき才能を揮(ふる)って織り成せる寝物語にすぎぬことが明らかとなったからである。遥か未来を見る者は泣きもせず、また寝かしつけられもしなかった。その多くの者たちは、そのような寝物語が真実ではないことを知っており、非真実を消し去ろうと大胆な進出をした者も少なくなかった。それは『絶対なるもの』、常在(じょうざい)なるもの、人類の中の一部の人々が常に見、知り、且(か)つ直接に触れて来たものを、直接彼等が見通(みとお)していたからである。このような一部の人士(じんし)たちから、人の手によって立てられ、他の者にも従うことを要求する偶像たちを消し去り、天地創造の暁(あかつき)とともに古くて新しき理念を容(い)れる余裕を造るべき態勢にある十二分に目覚めた、新しくしてより活力のある意識が興(おこ)るであろう。

従ってその為には、人類意識を教え、導き、乃至(ないし)、鼓吹(こすい)する人々は、現実の生活の場において、しかも何らの間違いや矛盾のありようのない高い次元において、且(か)つ又、噛(か)んで含めるようなやり方で、指導に当たることが必要である。より高い知性と霊性とを具備(ぐび)した目覚めつつある虎は、もはや二度と寝入ることを拒否するであろう。何故なら、彼らはすでに過去の破片をまき散らされ、誤れる信念から生(しょう)ずる苦痛を受けて失望しているからである。それは『真理』そのものの上に基(もとづ)いた教えによる、より強力な、より活力ある思想を要求している。大衆は、もろもろの信条で縛られた因襲に満ちた過去の数々の世紀を超えて、新生せる人類の心情と生命を啓示する古い古代の託宣に、今や耳を傾けつつあるのである。この新しくて古い託宣こそ、信条に縛られた僧侶達の読経(どきょう)の声を超えて鳴りひびくクラリオン(明快ならっぱの響き)の喚(よ)び音(ね)である。それは戦いの雄叫(おたけ)びより高く、金融、産業、政治、宗教に伴う虚偽(きょぎ)より発する矛盾を隠した声よりのも高く澄んでいる。一部の人類の、信条に縛られた思想の如何(いかん)に拘(かかわ)わらず、神、キリスト、人間、我、生、死等に関する従来の偶像化された考えは、すべて消え去らねばならない、且(か)つ、これら先入観による考えより完全に解き放たれた上で、これらすべての上に建てられた一切は過ぎ行き、払拭されなければならない。この近づき来たる新しきものという地平線の彼方に、全く新しき意味をもつ「贖(あがな)い」が影をさしつつある。このより明晰なるビジョンとより明確なる覚知より出生(しゅっせい)した新しき大衆は、すべての種族、すべての人々より放射される、より深き啓示によって償(つぐな)われるのである。その放射体こそ、すべてのものの中に、すべてのものを貫(つらぬ)いて実在する『一(いち)なる生命』である。

大衆は謬想(びゅうそう)に繋縛(けばく)され、その手は何かにしがみつこうとし、その態度は畏(おそ)れ縮んではいるが、神の、人の裡(うち)なるキリストの、神なる、大我なるキリストの、更(さら)には死そのものの地平は拡大して行く、而(しこう)してその偉大なる、より崇高なる眺望が迫りつつある。再び全世界の上に霊の周期が黎明(れいめい)を告げつつある。水晶人種(訳者註:水晶が透明なように、一切の先入観、因襲、わけても人間智慧の造り出した教条、形式などに全く染まっていない、或はこれを一切払拭した透明な魂、心情を持てる人種の意)の時代が再び大渦巻(おおうずま)きの中より現出(げんしゅつ)しつつあるのである。

一(いち)国民が神について思う都度(つど)、その国民は神になっているのである。何故なら、神が彼らの中に定着し給うからである。神という理念を愛し、礼拝し尊崇(そんすう)する時、彼らは神となる。今や時満(ときみ)ち、彼らは第一遺産を相続し、神霊の中に確立されたのである。何時にてもあれ、人が神について考えれば、彼は神となっているのである。神が彼の裡(うち)に定着した給うたのである。人類の中に生命を吹き込めば、紛(まが)う事なきそれは神である。宇宙にわたる啓示をこのようにより深く理解するならば、神は人類意識が現われ始める前も今も同じである―― 昨日も今日も、未来永劫(えいごう)、同じであることを人は発見する。人の手による仮初(かりそめ)の神殿ではなく、天の中に人の中に永遠に存在する神殿が、『正統』(訳者註:宗教は古来「正統」の名の下に無数の闘争・弾圧・殺戮を繰り返してきた。)と称する灰の中より現実に興(おこ)りつつある。自分の頭で考える偉大なる一(いち)新人種が、巨人の足どりを以て歴史の前面に歩み出て来つつある。いくばくも経(へ)ずして大いなる潮(うしお)が地上に寄せ来り、進化という重荷の下に苦行しつつある人々の道に散(ち)らばった迷妄の破片(はへん)を流し去(さ)るであろう。業(わざ)はすでに成就したのである。数億の人々が身も心も魂も、そして本能までも解明したのである。彼らは、まだ生まれ出てはいないが、後の世の世嗣(よつぎ)となるべき人種の謂(い)わば脈動である。その彼らが手を取り、神と共に歩みつつ、時代々々を超えて行くのが見える。無限なるものの永劫の渚(なぎさ)より大いなる英知の波が彼らに寄せて来る。彼らは敢然(かんぜん)として歩み出(い)で、おのれ自身を永遠なる神、永遠なるキリストの一部なりと宣言する。神と人とは永遠の生命と永久に一(ひとつ)であると宣言する。彼らは敢然(かんぜん)として歩み出(い)で、人間が録(しる)しきった部分が虚妄であり、恐るべき盲目の状態の書かれたものであることを、天に向かって宣言(せんげん)する。

この新しき脈動(みゃくどう)意識は、新しき人類意識を基底(きてい)とする大濤(おおなみ)の浪頭(なみがしら)である。この新人種は、人間を、己(おの)れ自身を、地球上における最高の表現であり、生命それ自身を通じて神と一体であると観(かん)じ、必要なるもはすべて生命それ自身より流れ来ると観(かん)ずる。この新人種は、人は完全なる宇宙の中に在り、完全なる人々と完全なる環境と条件にまったく調和し、宇宙の霊的計画には豪末(ごうまつ)の誤(あやま)りすらないという完全なる確信を以(もっ)て、生きて行くことが出来るのを知っている。

彼らは神を、すべてのものの中に遍満(へんまん)している宇宙霊と観(み)る。そして自分を現在の環境に置き、現在の自分とならしめた基本的な素因(そいん)を、躊躇なく精妙なる心を以(もっ)て検討する。かくして彼は再び自分の始源(しげん)と一体となる。この始源とは、想念によって意識的に無限心とつながり合体している彼自身の神なる心のうち、常に沈黙している部分であることを彼は知っている。この新人種は、栄枯盛衰の何(いず)れにあろうと、悲しむことなく、大いなる愛と真の平和とを魂の底から求めることこそが、神と人とに定められた真理であることを知っている。この人種は躊躇(ちゅうちょ)なく全人類から迷妄という襁褓(おしめ)を引き剥ぐ。従って無知故(ゆえ)に弱き、猜疑(さいぎ)し易(やす)き小我(しょうが)、人間の足を幾代(いくだい)となく繋縛(けばく)したおぞましき妖怪は、完全に消滅させられるであろう。今や完全に現前した真我によって、一切の制約が消え去っている事を彼は自覚する。彼は、彼自身を人間から神へ、そして遂に神へと昇華させたのである」。

暫(しば)らく休憩した後、牟尼は語り給(たま)うた。

(太陽系宇宙の誕生)

「父なる神が人類のために観(かん)じておられることから多くの事柄(ことがら)を学び取った方々がここに同席しておられる。この方々は神霊まで徹見(てっけん)する理解力を以(もっ)て洞見(どうけん)される。故(ゆえ)に、全世界がこの方々には見透(みとお)しである。人類が感じるものがこの方々には見えるのである。故(ゆえ)にこの方々は、人類の希望が達成されるように援助することができる。また、普通には聞くことができない数千の音、例えば蜂雀(はちすずめ)(ハチドリの別名)の歌、今孵(かえ)ったばかりの駒鳥(こまどり)の声、野に鳴くコオロギの調(しら)べ、これらの中には一秒間に一万五千回もの振動数で鳴くのもある。その他、人間の聴覚の範囲を遥かに超える多くの音をお聞きになる。

また全人類を裨益(ひえき)【助け、役立】する愛・調和・完全等の如(ごと)き種々の感情をかもし出す不可聴(ふかちょう)の音を感じ、調整し、放送することもおできになる。

豊かさの感じや大きな歓(よろこ)びのバイブレーションを増幅して放送し、全人類をそれで取り巻き貫(つらぬ)いておられるため、人類一人々々がその気になれば、それらを自分のものにすることが出来るのである。こういうことが事実存在すると分かれば、人類もまた一人々々がこれらのバイブレーションを増幅し放送して協力するであろう。そうなった時、人類の必要とするものは各人、または各集団の周囲やその中に、自然と実現するようになり、すべての希望が実現するに至るのである。一旦、必要なバイブレーションが働き出せば、各人はその実現を避けることは出来ない。こうして人類の完全な要望が結晶し、現実に形をとるのである。

神の創造的な、無限の流動する空間という巨大なる海は、水晶のように透明であるが、それでいて、震動し放射するエネルギーで完全に満ち満ちており、この放射エネルギーを通常、水様質(Aqueous substance)と言い、その中にあらゆる質料、乃至(ないし)、元素が溶解しているか、または調和した関係を保ちながら中間物として存在し、一定の震動率に直(ただ)ちに感応し、やがて凝縮して形態を取る。個人が全人類と協力して適正な想念震動を起こすと、諸元素はその型の中に殺到して型を満たすほかないのである。これは絶対的な法則であって、誰もその動きを喰(く)い止めることはできない。

よろしいか諸君、オルガンを非常な低音で弾いているとしよう、オルガンの音をだんだん下げていって、遂にはもう聞こえなくなるようにしよう。しかし、わたしたちがそれまでに音から受けた感じは、嫋々(じょうじょう)【しなやかなさま。たおやかなさま】としてまだ尾を引いている。聞こえなくはなっても、バイブレーションは依然として続いている。逆に今度はこの音を全音階に亘(わた)ってどんどん上げて行くと、やはり又、しまいには聞こえなくなる。それでも情感はたゆたい(揺蕩い)(ゆらゆらと揺れ動いて定まらない)、高いバイブレーションが実際には依然として続いている。音の影響が肉の耳の範囲を超えても、その影響はいずれも消えないことがこれでもわかる。

これがわれわれのいう『神』である。肉が支配を失ったとき、霊が支配する、のみならず、その支配は一層決定的である。それは単なる肉よりは遥(はる)かに広域のバイブレーションを持ち、想念には遥かに感応(かんのう)し易(やす)く、またその支配を受け易い。想念は肉体よりお、遥かに霊の方に密接につながり、整合(せいごう)しているからである。

肉は体に限られ、体より外に拡がることも、離れることもできない。又、全く体の行動にのみ限定され、その反応にはつながらない。体の反応にまで及んだ時、それを霊と定義すれば、われわれは霊である。肉体が如何に限定されたものであるかが、これでも分かるであろう。

霊は、いわゆる肉体のあらゆる原子に浸透しているだけでなく、個体・気体のいかんを問わず、あらゆる質料の最微なところまでも浸透している。事実、それは力であり、その中で原型がつくられ、質料がそれを満たして、種々様々(しゅしゅさまざま)の形態となって出てくるのである。それ以外には質料が形を取る道はない。人間は、質料が形造るこれらのもろもろの形態の投影者・調整者にすぎないのである。ここでしばらく本筋から離れて、説明させてもらうことにしよう。われわれの宇宙の中心に、燦然(さんぜん)と輝きを放っている大いなる太陽がある。地平線が次第に後退し、われわれの視界に新しき日が現われた時、新しき時代、新しき復活祭が生まれる。

われわれのいわゆる宇宙は、或る一つの中心太陽を公転する同様の九十一の宇宙の一つにしか過ぎない。この中心太陽の大きさは、全九十一の宇宙の全塊量(マス)の九十一万倍もある完全なる秩序の下(もと)にその周囲を運行している。九十一の宇宙も中心太陽と比較すれば、あなた方のいわゆる原子核、即(すなわ)ち原子という中心太陽の周囲を回転している微少(びしょう)な粒子のようなものにしか過ぎない、それ程にこの中心太陽は巨大なのである。この巨大なる中心太陽をこの宇宙が公転するには二万六千八百年かかる。それは北極星の才差(Precession)に正確に合致して運行する。ありとしあらゆるものを支配している大いなる能動的、聖なる力の存在を、これでもあなた方は疑うのであろうか。さて、観察に戻ろう。

よく観るがよい。映像が今、現れて来る。そのフィルムには、白い円球状の太陽の画像がある。赤い点が一つ、白球の上に出来てくる。もっとよく観るがよい。赤い円球から純白の光が一小点となってさっと閃(ひらめ)いたであろう。それはただの光条ではない。それは純粋な光の走る一点、これから生れ出(い)づべきものを内包(ないほう)して放出された生命の閃光(せんこう)である。あなた達には光の一小点にしか過ぎないが、近づいて見ることのできる者にとっては巨大なるものである。あなたたちには只、珍(めずら)しいだけであろう。ごく近い将来に、あなた達は視力を補助する器具を通して、これらをすべて見ることになるであろう。そして、それは人類にさらに多くの神秘を啓示(けいじ)するであろう。

この大中心太陽は脈動し鼓動しながら、しかも相(あい)調和している放射エネルギーを数百万年の間、自分自身に惹(ひ)きつけてきた。このエネルギーは、いずれ自然に消散(しょうさん)するか、爆発して散ってしまうか、しなければならない。大いなる雲状のガス塊(かい)が太陽から爆発出したのを観るがよい。あなた達は今、これの映像の中に海王星の誕生を見たのである。今、親(おや)太陽から巨大なる力で放出だれた微少(びしょう)宇宙粒子乃至(ないし)、原子ともいうべき巨大なる魂が海王星である。

モヤモヤとして形も定かではないが、最後の排出が起こる前に現われた光点(こうてん)が中央太陽で、それは親(おや)太陽から飛び出した大きな粒子は勿論(もちろん)、最微少の分子に至るまで惹きつけれ結合する力がある。

こういえば、あなたたちがまっ先に考えるのは、まず爆発が起こって太陽の粒子が空間に射(う)ち出されたということであろう。しかし、一寸(ちょっと)待ちなさい、実際の現象をよく観察して見るがよい、その粒子やガスがしっかり結びつき、明確な球形となるのは、如何(いか)なる理由によるものであるか。それは、その背後にあって完全なる秩序と調和のうちにそれを導いている英知ある『法則』のためである。これが偶然ではなく法則、決して謬(あやまる)ことのない法則によって支配され、完全なる秩序と順序に則(のっと)っている証拠である。

この光点(こうてん)、すなわち中核が中心閃光(せんこう)、すなわち中心である子であり、全人類がその周囲を回転する人類のキリストである。これは明確なる『霊』の力である。この『法則』は人類の全成員に働く。中心閃光は純白の光点(こうてん)で、それは即(すなわ)ち原初の細胞を貫(つらぬ)くキリストである。その後、この細胞は拡がり分裂したものから生まれ出て、人類が愛と呼ぶ共存結合力によって結ばれている他の細胞に、この細胞はその光を与える。

これらの分子は丁度(ちょうど)、母が子を抱いて育てるように、栄養を与えられ、また結ばれる。事実、それは太陽の子であり、同時に自分自身の中に中心太陽の核を持っている。この中核とはそれを生み出した親の肖像である。親から出てくるや否や、この中心太陽(中核)もその生命と生長(せいちょう)とに必要な周囲の振動する放射エネルギーを引き寄せ、整合し、保持する力を持つようになり、最後の凝縮を遂(と)げて海王星、即(すなわ)ち現在のわれわれの宇宙の最も遠くに延(の)びた軌道を走る最古の惑星となる。

海王星が最初に誕生し、中央太陽(中核)が主としてその親なる太陽からエネルギーを自分に引き寄せると、エネルギーが整合して原子の形をとなるということは、その誕生前に既(すで)に描かれていた原型に合わして姿を取り始めたことに他ならない。この原始海王星(かいおうせい)はいわゆる揺藍(ようらん)の軌道、即(すなわ)ち水星が今日占(し)めている軌道の内側にあたる軌道を占めていたのである。この軌道内で、子(こ)惑星(原始海王星)は親に一層近いだけによりうまくその質料を引き寄せることができるし、そうするにつれて凝縮して、形を成し始めたのである。科学的元素は雲状の中の単なるガス蒸気のままではいないで分離と結合とを開始した。このような化学変化から生じた個体が凝縮しだし、巨大な熱と圧力との下に岩石が形成し始めた。この半液体物質が更に供給するにつれて、表面が冷却しだして殻(から)が形づくられ、更に冷却過程と外側の粒子の同化(どうか)と増加とのために、殻が一層(いっそう)重くなり厚くなる。この殻が、回転する固まりを支えるだけの強さになると、それは中心に半液体の溶(と)けた集塊(しゅうかい)を持つ原始の岩石(がんせき)構造となる。やがてその結果生じたガスと蒸気から、水がこれらの結合として現われ始める。初め星雲(せいうん)だったものが、今や惑星の名にふさわしいものとなったのである。今や生命を維持しうる状態をめざして進化が速やかに進行する。しかし猶(なお)、幾劫期(いくごうき)ものあいだ外部から次々と粒子をその構成体(こうせいたい)に加え続けなければならない。中央集塊(mass)の冷却が続き、気圏(きけん)や化学的状態や表面が有機生命体を生み出し、且(か)つ維持する用意が整(ととの)うように完成に近づいてゆく。

ここで親(おや)太陽はもう一つの原子に相当するものを生み始める、その排出が終わったときが即(すなわ)ち天王星の誕生である。この誕生といっしょに特別の力が出て、それが海王星をその揺籃(ゆりかご)【物事が発展する初めの時期】、つまりやや小さな軌道からもっと大きな軌道に弾(はじ)き出したのである。しかし海王星は、天王星の雲状(くもじょう)の構造が一人前の惑星となるまで、親(おや)から栄養が受けられるように、この新生児たる天王星に揺籃(ゆりかご)の軌道を明けてやるために、今や水星の占めている軌道をとらされたのである。〔原始海王星は現在の水星の内側の軌道で育ち、次に原始天王星が生まれると、自分の軌道をそれにゆずり、自分はその外側、即(すなわ)ち現在の水星の軌道に移ったのである。かくして新惑星が生まれる毎に旧惑星は親(おや)太陽より遠い軌道に移って行く。― 訳者註〕

再(ふたた)び這般(しゃはん)【これら】の情況が落着き、長い間順調が続く。最初の出生児(しゅっせいじ)たる海王星は生長(せいちょう)し、生命を維持し得る状態に近づいて来ている。事実、その濁(にご)った塩気(しおけ)のある水、即(すなわ)ち内海(うちうみ)にはアメーバの形のものが現われ始めている。やがて別の原子の誕生の用意が整(ととの)い、土星が生れる。この排出のときに出た特別の力が、天王星をその揺籠(ゆりかご)の軌道から弾(はじ)き出し、更(さら)に海王星をその軌道から追い出した(その後を今の金星が占めている)わけである。

海王星は今や十分に冷却し、その表面は生命を支(ささ)え得る段階にまで発達した。人間生命という要素が、人体の維持及び出現に必要な選ばれたアメーバに結びつき、更(さら)に、今日の地球が享受(きょうじゅ)している人間生命の維持と栄養とに適する状態に達したのは、この惑星においてこの軌道を占めたときである。

こうして、動物アメーバではなく人間アメーバ、即(すなわ)ち特別に選ばれた型と性格をそなえ、進化の過程を短縮し得るし、事実短縮した知性を持ったアメーバである原初の人類、が出現したのである。この惑星における状況は、優秀なる人間の発展にとっては申し分ないもので、その発展は急速に進んでいった。

この段階では低級な動物機構のごときは存在しなかったので、動物生活はまだ出現(しゅつげん)していなかった。この天体は、宇宙質料乃至(ないし)、水様質料から直接自給のできる完全なる人種へと、急速に発展していった優秀なる人類によって占められた。そういうわけで、彼らはこの惑星上の神々とも言える。今日の伝説や神話の多くはこの偉大なる人間たちに始まり、また彼らをめぐって造られているのである。彼らは全く彼らを生み出した原理通(どお)りの人間であった。美と完全とを表現し得(え)る能力を持ち、この能力によって自分たちの周囲を完全美麗(びれい)なる状態で囲繞(いじょう)【まわりを取り囲む】しはじめた。事実、彼らはこの惑星を美と完全との天国に造りあげたのである。

この種族、一切の自然力を絶対的に支配することによって、この完全なる状態を永久に維持することに定められていた。従って彼らが何かを希望して念(ねん)ずれば、直(ただ)ちにそれは実現したものである。

ところが時日(じじつ)がたつにつれて、為(な)すべきことをしなかったり、同僚より抜きん出ようとしたりして、利己主義の様子(ようす)が出始めた。このような状態から集団の色分(いろわ)けが生まれ、それはやがて分離の原因となる我利(がり)と貪欲とをもたらした。奉仕と進歩に費(つい)やすべき時間が、喧嘩や口論に浪費されるようになった。自分たちの生命の淵源(えんげん)に従い通すべきであるのに、彼らは意見を対立させて大きく離反(りはん)し、遂(つい)にごく一部の人々を除(のぞ)いては、全部が崇高なるものを失ってしまった。この少数以外の全部が自分達の安全や保護などを考えなかったため、自分達の惑星の周囲に渦巻(うずまき)を生ぜしめてしまった。

聖なる惑星群の上に聖なる完全な世界を成就することを一旦可能にした完全なる神意(しんい)に従い通すことをせず、途中でこの神意に背(そむ)いたがために、次の爆発を誘発してしまった。その時の爆発の力が余りにも巨大で、星雲が凝縮して後に出来た惑星は、それまでに誕生したものよりも大きなものであった。こうして木星が生れたのである。この時に出た過剰のエネルギーが余りにも巨大であったため土星を始めの軌道より跳ね飛ばして、現在水星の占めている軌道に移してしまった。この爆発が余りにも強烈で太陽系を一杯にしたため、非常に多くの小遊星群(しょうゆうせいぐん)ができて土星の周囲に整列してしまったが、土星とは極(きょく)を異(こと)にするために土星と合体するわけにもいかなかった。こうしてこの星群は独立し、他に取るべき唯一(ゆいいつ)の道はアステロイド帯(小惑星の軌道が集中している領域を指す)として土星の周囲に整列することであった。そういうわけでこのアステロイド土星の環(わ)といわれ、その中には惑星大のものも幾つか存在する。

この爆発力は、あの大きな美しい海王星を、現在地球が占めている軌道に弾(はじ)き飛ばしてしまった。その華麗(かれい)さも、偉大なる住民達も、少数を除(のぞ)いては悉(ことごと)く吹き飛ばされてしまったのである。幸(さいわ)いにも護(まも)り残された者は、その聖なる遺伝を決して放棄しなかった。彼らの体は特殊の構成となっていたため、「霊園」(Spirit Sphere)放射能の中に安全を求めることができたのである。この『霊園』は、現在でも存在している九十一の宇宙を囲繞(いじょう)し、貫通している。

このようにして彼らは終始一貫、その本性と英知とを持続し且(か)つ顕現(けんげん)しつづけることができたのであり、今後も決して消滅することはないだろう。われわれが今日生きているのもこれらの理念のおかげである。わたしたちはこれらの偉大なる方々の血筋を受けているのである。この方々が人類の根源種族であって、人類の理念と人間の神性はこの方々によって維持されたのである。木星という星雲が一個の惑星としての形態をとるのに必要な時間が、それからのち幾劫期(いくこうき)となく続いた。図体(ずうたい)が余(あま)りにも大きいため、それは今でも猶(なお)、ほんの僅(わず)かしか冷却していない。

時は猶(なお)もすみやかに過ぎ、太陽は今や第五の星雲(せいうん)を生み出す用意が整(ととの)った。こうして赤い血の惑星、即(すなわ)ち、火星が出現した。この排出は完全に行われたために、わたしたちは例の強大な木星にある現象が起こりつつあるのを見ることができる。木星の側(そば)に巨大な赤い点が一つ、突然ポツリと現われ、木星は自分自身の大部分を排出する、即ち月という衛星を生み出したのである。この二度の排出(はいしゅつ)の際に起きた力が巨大なため、さすがの巨人木星も最初の軌道から投げ出されて、火星のために明け渡すことになった。巨大な木星が新軌道を占(し)めても、回転している星雲状のものは、誕生時に弾き出された粒子の大きな集塊(しゅうかい)【マス】をどうしても引き寄せることができない。そのため、この粒子たちは余りにも遠くに跳(は)ね飛ばされたため海王星天王星土星、火星の影響下に来ることになった。しかし極(きょく)を異(こと)にするために、これらの惑星に同化(どうか)されることもできず。惑星としての極(きょく)を持たない別々の遊星群(ゆうせいぐん)【アステロイド】とはなったが、惑星としての地位を占(し)めて中央太陽の周囲を調和(ちょうわ)整合(せいごう)して公転(こうてん)することはできない。従(したが)ってそれは何らその運動に律動(りつどう)【周期的な運動】もなく、恐るべき速度で飛ぶ巨大な流星群(りゅうせいぐん)となって空間を飛行し、遂(つい)に他の惑星と衝突してその表面にはまり込(こ)むか、衝突時の衝撃のために砕(くだ)け散るかのいずれかである。

また空間を物狂(ものぐる)いのように飛ぶときの微少(びしょう)な粒子は飛び散(ち)り、次第に液状の塊(かたまり)【マス】となって再び中央太陽に吸収、同化され、他の惑星、即(すなわ)ち原子を生み出すときの星雲となり再(ふたた)び出て行くのである。

さて今度は、最後にわれわれの地球となった星雲の誕生となる。火星が、生まれ出たときの軌道から投げ出されて、地球がそのあとを占(し)める。こういう風にして、惑星は悉(ことごと)くその場所を新しく生まれた子に明け渡すために、別の軌道に送りこまれる。金星もこうして生まれたのである。同様に、また地球もその他のすべての惑星や原子も、新しく生れ出る惑星や原子たちのために揺籃(ようらん)を明け渡すべく、常に広がり行く軌道に投げ込まれる。かくしてまた水星が生れる、これも他の惑星が原子を他の拡がった軌道に追い込むことによって生まれるのである。こうして今日の天文学の知識で肉眼に映(えい)ずる八個を全体とする惑星集団が完結されたのである。

しかし、本当は九つある。というのは、揺籃(ようらん)軌道には水星が乗っていないからである。それは、最後の星雲、即(すなわ)ち子が占めるが、その星雲はまだ肉眼では見える程(ほど)には凝固成形していない。

それでもしかし、それはそこに実存するし、その影響も感じられる。かくしてわれわれの地球を一部とするこの宇宙は、九つの惑星、乃至(ないし)原子群と、中心核である太陽の周囲を数学的精確(せいかく)さで運行している九つの軌道とを抱合(ほうごう)する。あなた達はこの天地創造が秩序正しく継起(けいき)して実現して行く姿を今、目(ま)のあたりに見たのである。

太陽から最も遠く離れて、一番大きな軌道をもつ惑星の海王星に、今何かが起こりつつある。この惑星は既(すで)に成熟し速度も限界に来ている。光もいわば一杯に『充電』し、一個の太陽として出直(でなお)すまでになっている。新しい星雲が形成し始めているし、太陽も第十番目の星雲を生み出すまでになっていて、今や海王星は衰(おとろ)えつつある。この星雲の排出が起こらないうちに、海王星はすでに中心太陽を公転する限界速度に達してしまっている。いずれ空間の中に飛び離れて爆発し、やがて液状に還(かえ)り、ついで再(ふたた)び中心太陽に吸収されてそのエネルギーを強化し、惑星や原子を更(さら)に生み出す素(もと)となるであろう。わたしたちの地球を一部とするこの宇宙には、中心太陽の周囲を一度に公転する惑星、言いかえれば原子たちは九(ここの)つしか存在し得ない。かくしてそれは、生誕、凝固、拡張、現界速度への到達、空間への飛去(とびさり)、爆発、崩壊、そして新誕生実現のための太陽による再同化(どうか)の絶えざる繰り返しである。

また、太陽は液状の状態から、再(ふたた)び液状の状態に還元するために排出したものを、再取込みしている。斯(か)くて再生から新誕生への連続的繰り返しである。このような過程がなければ、九十一の宇宙群の中心太陽もその他の諸宇宙の中心太陽たちも遥(はる)か昔に消耗し、一切は全質料のふるさとである『無限なるもの』に還元(かんげん)していたであろう。

すべての放射物や空間の中に遍満(へんまん)している『英智』を形成せしめ、前進への出発をなさしめるのである。太陽、乃至(ないし)、中核は決して古くもならなければ、死にもしなし。それは受け取り、吸収し、保持し、整合し、しかるのちに原子を生み出す、しかし決して減らない。なぜなら、それは自分の出しつつあるものを永久に受け取って自分自身の中に吸収しているからである。かくして再生と再誕とが四六時中(しろくじちゅう)つづいている。宇宙群は形成され、拡大し、その受け取ったものを還元しつつある。低きから高きへ、しかして、より高き次元への進化の連続である。

われわれの地球と、その九(ここの)つの惑星、言いかえれば原子群、とからなる銀河を一部とする九十一の宇宙群から成(な)る銀河は、実は更(さら)に広大なる九十一の銀河群の中の一つにしかすぎず、このより広大なる銀河群は、更にまた巨大なる中心核、即(すなわ)ち別の太陽を公転しており、この核太陽は先に述べた第一の銀河の九万一千倍もの質量を持っている。このような状態が次々とつづき、九十一回、ほとんど際限なくつづいて、その全体が無限の『大宇宙』、あなた方のいう『天の河』を含む銀河群を構成しているのである。この『宇宙』はよく『原子熱線』(Atomic Heat Ray)といわれて、太陽熱の根源なのである。

これはあなたたちの太陽が所属している星群の雲ではない。それはさきに述(の)べた巨大なる宇宙の中心太陽、すなわち核から生まれて排出された一個の星雲である。この星雲の中にあるように見える太陽は、実は太陽から出る光線の一部しかすぎない。これらの特定の光線(rays)は塊(マス)の中に入ってゆくとき或る角度で曲げられ、反射して、この曲がり歪(ゆが)んだ光線が太陽の映像を直視(ちょくし)していると思い込んでしまっている。同様に多くの他の惑星群や原子群も、同様の現象によって歪曲(わいきょく)されている。従ってそれが沢山あるように見えるが、実は比較的少ししかないのである。本当の数字が全部わかるのは、数百万年後のことであろう。

この画像をよく観察すれば、これらの星雲またはその太陽は、円板状ではなく丁度(ちょうど)わたしたちの地球のように、両極で平たくなっている球形であることが分かろう。あなた方は実は、大きな平たくなった極域(きょくいき)を見ているのである。

この大いなる宇宙太陽の巨大なる塊(マス)が光線に実に深刻なる影響を及ぼすために、光線は完全に『大宇宙』を廻(まわ)って反射する。そして又、光線は大原子線、或(あるい)は大宇宙線(Atomic or cosmic Rays)接触することによって、決定的に影響を受け且つ反射されて、その粒子が広域にわたって放出されるので、一集団から幾千もの惑星群や星群の映像が投映されるのである。かくして幾千もの惑星群や星群がその位置を錯覚され、更にまた数千もの映像が反射されるのである。われわれが宇宙を見通すときに見える映像は両側面を顕わしているのであって、われわれは幾億年前に発光して大宇宙を完全に一巡(いちじゅん)した光を見ているのである。かくしてわれわれは、一つではなくて二つの像を見ているのである。或る一つの像は数百万年前の惑星の姿であり、今一つは数億年前のそれである。これが巨大なるすべての『大宇宙』組織全体にわたって起こっている。だから多くの場合、われわれは実際には大いなる過去を見ていると同時に、同様の方法で未来をもまた見ることができるのである。

想念、乃至、心臓の脈動(みゃくどう)が数十億サイクルに増幅されて霊の命令を伝えるように、全宇宙を統御している不可視のつながりがある。これらの偉大な脈動する衝動(インパルス)または心臓の拍動(スロップ)に相当するものが『大宇宙』を取り巻いている液の様態(ようたい)に遍満(へんまん)している英知を通じて伝わってゆく。この英知が大宇宙の霊に相当する。全大宇宙のあらゆる原子に生命の流れを送り込んで、完全なる秩序と律動とを以て動かしているのは、これらの巨大なる心臓拍動(はくどう)なのである。この無辺際(むへんさい)【広大で果てのないこと】の大宇宙には、いかなる病める、乃至(ないし)、不調和の細胞もありえない。なぜなら、そのようなものが一個だにあれば、一切を滅茶滅茶にしてしまうからである。そのときは一時、渾沌(こんとん)となるであろう。これは不調和(ふちょうわ)な想念(そうねん)によって妨げられたときの人間の有機体にもあてはまる。『神(Godhead)〔原義は(神の頭)―訳者註〕というコトバが自然に生まれ出たのは、この中央の統御(とうぎょ)からである。人間一人一人の心臓の鼓動(こどう)は、小規模ではあるがこの大宇宙の心臓脈動に相当する。人間は全水源(比喩―訳者註)を統制する英智より出たものであり、またその写しである。彼は『根源』の共存者であり、一切をかの大いなる水源地より抽(ひ)き出している。恰(あた)かも、大中心太陽が同じ源泉(げんせん)より抽き出しているが如(ごと)くに。しかも猶(なお)、人間の場在りは、中心太陽よりもその抽(ひ)き出す度合(どあい)は大きい、なぜなら、彼は源泉を支配している大英智と一体であるからである。

人間一人一人は、大いなる全宇宙群にくらべれば極微(きょくび)ではあるが、それ自身よく組織された聖(せい)なる宇宙である。しかし全人類を構成するものとしての人間が、その神性を認めて神性に伴う責任を取るならば、極微に見える彼が全宇宙に取って必要なのである。なぜなら、人間は全宇宙群についての神の全プラン以前に在り、且つ同プラン全部を統制している偉大なる英智に属するからである。かくて、よしや全宇宙群が崩壊するとしても、人間は光という放射から始まって最も低い物質体に至るまでの、水様態中のあらゆる放射物に遍満貫通している原始の英智と完全に協力することにより、全宇宙を再建することも出来るのである。よしんばこのような破局が起ころうとも、人間は、破壊というのが如きものの一切存在しない原始の英智に復帰する力を有するのみならず、実にその力そのものである。破局の後、静穏(せいおん)が再び支配し調和が復活したとき、人間自身がいつ原始英智に復帰し、原始の完全さを現出(げんしゅつ)すべく宇宙生成の全過程を再び進行させるのに幾兆年もの年月がかかるのは、もはや彼の問題とするところではない。ここにおいては、人は無限者と一体のままでいて、宇宙群の誕生に時の熟(じゅく)するのを泰然(たいぜん)として待つのである。やがて時来れば、創造神がより完全にしてより永続する状態を造り成すに当り、前の経験をその意識の中に保持するが故(ゆえ)に、彼は創造神のよき助け手、以前にもまさるよき助け手となる。その際、彼は如何(いか)なる形あるものにもまさって明確なるが故(ゆえ)に、彼は決して失敗することは出来ない。彼は地平には、彼の意識には、失敗なる文字は記されていないのである。

最微少(さいびしょう)なるもの(人間)が全有形体中の無限なるものとなる。賢者が、『吾は不死、不老、久遠なり』『生命及び光の中の一物として吾ならざるはなし』と言ったが、その時の賢者は、この未来を眺望しているのである。これこそがまことの神性である。昇天こそ、まことに彼人間のものである」

神性を生きる ―アダマス・セント・ジャーメインからのメッセージ

ひとりになるとき神性に目覚める

   内なる目覚めにおいて、自分自身との時間を持つことがとても大切であることがわかります。あなたの人生の過去には、多くの安心感を得たいために、心地よく感じることを求めて他人と一緒に居る必要がありました。あなた方の中にはひとりでいることに困難を感じる人々がいます。おそらく、ひとりでいることを寂しさと混同していたからかもしれません。

   これからは、あなたにはひとりでいる時間が必要になります。

   この時間を自分に持たせてください。それはとても大切なことです。なぜならこの時間が、あなたの人生に神性のエネルギーをもたらすからです。周りがざわついているとき、たとえば都会の騒音や多くの人々、車の騒音、会社の騒がしさ、テレビの音のようなものは、内なる静けさをもたらすことがより困難になります。

   人生において、他の人々との交流やさまざまな活動など、スケジュールがとても活発になる時期があります。忙しすぎてどうすればよいかわからないと思いながら、眠りにつく夜もあるでしょう。一方、もう一つの極端さは、中断し、立ち止まり、何もしない必要がある時期です。自分自身と一緒にいるために、人生からすべてのことを遮断したいという衝動に駆られます。

   これは適切なことです。

   あなたのすべての部分が、これだけの慌しい活動についていくためには、休止が必要だからです。こうした急激な変化をくぐり抜けている時には、ただ立ち止まるだけの時期が必要になります。

   もしあなたが家庭を持っていれば、パートナーや子どもたち、それにあなたの肉親たちや血の繋がったあらゆる人々が、それまでの活動的であったあなたの断片を欲しがるでしょうが、意志を強く持つ時です。自分に耳を傾け、立ち止まり、自分自身と向き合うかけがえのない時間を自分に与える必要があります。

   これはとても大切なことです。

   避けないでください。ただ自分と一緒にいるだけのために、そのためだけに会社に電話をかけて病欠するということであっても、やってください。自分ひとりで長時間ドライヴに行くというのであれば、ただやってください。 

   自分自身にその時間を与えるのを怖れないでください。

   それは美しい贈り物です。あなたは内側からそれを感じるでしょう。それはこう囁きます。「ひとりになる時だ」。家族や仕事など、他の問題やあなたの義務などのために、ひとりになる時間が取れないことがないようにしてください。言い訳をしないでください。

   あなたの人生は変化するでしょう。

   エネルギーが動き出したかと思えば、行き詰ったように感じます。

   するとまた動き出しては行き詰まりを感じます。こうしたすべてが、あなたの目覚めと新しいエネルギーに入るための、自然なプロセスの一環なのです。

   あなたの内側では、とても美しく深いレベルで、霊的な物理的プロセスが作動しています。あなたがそれを無視しないでいることが大切です。あなたはこうしたことを感じていますが、あなたの表面意識がそれを抑圧したり、自分を信頼していなかったり、先延ばしにしたりするのです。後でやるつもりだとあなたは言いますが、いまやってください。それをハートで聞いてください。それは美しくて、驚くべき変容のプロセスなのです。

一方へ固定していた古いエネルギーの振り子が動き始める

   あなたのメンタル全体が変容状態にあります。

   あなたはこれまで、マインドを使って、論理的でとても分析的な方法で問題の解決に当たってきました。しかしそれも変化します。あなたの構造は新しい「思考」の仕方ができるように、それ自体が再編成されているからです。

   あなたは時に、以前のような思考をできないことにフラストレーションを覚えるでしょう。なぜ集中できなくなったのだろうと思うのです。「きっと歳を取ったからだ。サプリメントを摂取してみようか」などと密かに考えます。頭が鈍くなってきたのだと思うかもしれませんが、そうではありません。

   マインドはまだ必要ですが、あなたはもう一つ別の非常に重要な部分を開いているのです。それはたとえば私たちが gnost(ナスト) と呼んでいるもので、それはあなた方の直感や、すべてを知っている本来の状態 knowingness(ノウイングネス) のことです。さらにあなたは神聖な知性に再び繋がろうとしていますが、このつながりは常にそこにありましたが、それは地球上にはもたらされず実践されることのなかったものです。

   それはどういうことかと言えば、あなたが現実を分析し解決するやり方が、根本的に変わるということです。あなた方は今、意識とエネルギーを組み合わせた意識体のプロセスを再編成し、整理し直しているところです。ですからあなたの人生に、まったく新しい知性の形態が現れることを覚えておいてください。

   本物の知性は、「2+2=4」という知識を超えたものです。

   本物の知性とは、「2+2=何にでもなる」というものです。それがあなたのものの見方や信念、選択によって決まります。あなたに入ってくる新しいエネルギーの知性は、2+2=何にでもあなたが望むものになるという概念を理解させてくれるでしょう。

   あなたの人生体験には極端さが出てくるでしょう。

   それも、新しいエネルギーが入って来ているためで、これまでの固定していた古いエネルギーの振り子が、一方の極からもう一方へと振れるからです。古いエネルギーと新しいエネルギーが一緒になれば、完全な表現になります。

                   

多くの場合、ほとんどの人は自分を劣(おと)っていると認識しています。

   自分は道に迷っており、何をすればいいのか分かっていないし、自分を弱い者として考えています。自分は自由ではないし、どこか歪んでいて自信がなく、劣っていると感じています。

   するとどうなると思いますか?

   エネルギーはその通りに、具体的に、文字通りそのようにあなたに奉仕します。朝起きてこう言うとします。「あぁ、また同じような1日が始まる。また人と競争しなければならないし、緊張やストレスが半端じゃない。私は見た目がそんなに良くないし、食べていくのがやっとだ」。その瞬間、すべてのエネルギーがあなたの考えるその通りに整列し、その日1日をそのように、あなたに文字通り奉仕するのです。

   だから私は言うのです。「この日は私のものであり、この夜も私のものだ」と。

   つまりエネルギーは昼も夜も私に応えるのです。あなたのエネルギーにもそれと同じことができます。そればかりかエネルギーはすでにそうしているのですが、残念ながらあなたは気づいてはいません。

   すべてのエネルギーがすでにあなたに奉仕していますが、そのエネルギーはあなたの自信のなさと戸惑いという、あなたの幻想に奉仕しています。戸惑いというのは、他人を幸せにするために自分が妥協しなければならないと思うことです。躊躇(ちゅうちょ)するのは、あなたが大胆で勇気ある一歩を踏み出すのを怖れているからです。

   あなた方はすべてマスターなので、ある意味ではあなたはうまくやっています。

   そうしたことが日々、あらゆる瞬間に起きています。「私は私だ」と言わずに、実に多くの人間たちが、「私は私ではない」と言っています。その結果、あなたに入ってくるエネルギーは1日中、1晩中、あなたの「ない」に奉仕するのです。

意識が変化することでDNAの浄化が始まる

   あなたのDNA(デオキシリボ核酸)は変化していますが、それはあなたの意識が変化しているからです。DNAの内部で最初に変化するのは祖先のカルマ、つまりあなたの血統です。あなたは通常、転生から転生にわたり同じ血統に生まれて来ます。ですからほとんどの場合、あなたは両親や自分の子どもたち、パートナーなどを、おそらく以前にも知っていたはずです。

   つまり、準備が整い、新たな転生に入る直前に、強力なカルマの引力があなたをその血統へと再び引き寄せるのです。それはたとえあなたが、「もうあの家族には絶対に戻らないぞ!」と思っていたとしても、あなたを(カルマが理由で)吸い寄せてしまうのです。

   血統はあなたのDNAに織り込まれています。

   あなたが家族の人たちに外見が似ていたり、似た行動をしたり、もっと言えば同じような考え方をするのはそれが理由です。

   しかし現在、あなたのDNA構造は洗い流され、掃除されることで、自然で純粋なエネルギーに戻ろうとしています。それは素晴らしいニュースです。なぜならあなたを、家族のカルマから開放してくれるからです。祖先が残した負債やさまざまな負担から解放されるからです。それだけでなく、生物学的に運命付けられたものからも解放します。

   それはたとえば、あなたの家族の遺伝の特徴に癌や糖尿病が含まれているならば、それらはやがて消滅していきます。ですからあなたはもはや、古い家族の血統に閉じ込められることはなく、あなたはあなたが望むイメージに自分を作り変えることができるのです。

   DNAコードが洗い流されるに伴い、あなたの外見が変わってくることに気づくでしょう。

   もしかすると目の色が変化するかもしれず、あるいは顔の形が変わるかもしれません。それはある日、あなたが鏡を覗き込むとき、以前の自分の写真に比べ、自分がどれほど変わったかに気づくのです。体重やあるいは体形に変化が現れるかもしれません。

   あなたは家族とエネルギー的に関わりを持っていますが、それも劇的に変化するでしょう。あなたの一部はもう、それほど深い繋がりを感じなくなります。ある朝目覚めたら、家族に対して今までのように、ほとんど親密さを感じなくなっているかもしれません。

   あなたが家族と、強い愛情に満ちた繋がりを築いていたり、あるいは深い関わりを持っていたら、こうした変化はショックに感じるかもしれません。ですから、家族に対する気持ちや繋がりに変化が起きても驚かないでください。

   あなたの子どもたちに対しても同じことが言えます。

   あなたが父親、あるいは母親であれば、自分がどこかおかしいのではないかと思うでしょう。なぜなら突然、その子がもう自分の子ではないように感じるからです。

   他にも重要なことが起こります。

   あなたがDNAのコードを解放すると、もうじきあなたの家系に転生するはずの人の、DNAコードもまた変化します。もしかするとそれは、まもなくまた戻って来る予定の亡くなった親や祖父母かもしれません。つまりコードが変化することで、彼らが再び、この古い祖先のカルマにはまる必要がなくなるのです。

   あなたは自分のエネルギーを動かすことで、彼らを自由にしているわけで、そのようにしてあなたは他の人々の未来の可能性までも変えることになるのです。これはすごいことです。

 

あなたが目覚めの第二段階に入ると、とても興味深いことが起こります。

   つまり、そのすべてがこれまでのあなたの構造を取り壊してしまうということです。それはとても痛い! そしてあなた方の多くがそこへ行き、それをやり遂げ、今もその副作用を感じています。

   あなたはアセンションする準備ができており、今や賢明で霊的な人になろうとしています。すると何かが起きてきて、あなたの人生は崩壊します。あなたはこれまでの構造をすべて取り壊してしまうのです。

   それを不運なこと、気の毒なことと私は言うつもりはありません。

   なぜならそれはおそらく、必要なことだからです。しかしそこまで痛みを伴う必要はないし、破壊体験である必要はありません。それが起きる理由は、この領域であなたが自分だと思っていたものが、これまで内に抱えていたあらゆる信念がすべて崩壊し始めるからです。

   それは実は、変容のプロセスなのです。

   すべてが崩壊しているように見えるだけなのです。とはいえ、まるで粉々に砕けているような気分です。それはまるで地震で古い建物が崩れるように感じられます。人間のアスペクト(表面意識)は悲鳴をあげます、「いったい、私の人生に何が起きているんだ!」と。

   さて、あなたはこの途方もない矛盾の真っ只中にいます。

   あなたはスピリチュアルな人のはずなのに、今や人生が崩壊しているように思えます。自分がどれほどすごい人になるかを、あなたは常々他人に言ってきましたが、今あなたはクズ同然です。彼らは陰で笑い、目の前で笑うこともあります。

   あなたは仕事を失います。

   それだけでなく伴侶を、健康を、そして心を見失っていきます。あらゆるものが崩壊し、あなたはこれまでの構造を取り壊していきます。

   さあ、祝杯を上げてください!

   あなたはいま、目覚めを経験する段階にきています。これまでのすべての古い価値が変化し始めます。あなたが信じてきた古い信念体系のすべてが、今、取り壊されるのです。

   あなた方の実に多くの人々が、この人生で成功するためのアスペクト(別の可能性)を持っています。良い仕事に就き、良い家庭を持ち、自分を誇りに思ってくれる人たちが周りにいて、誇りに思う子どもたちがいる・・・。しかし必ずしもそうはなりませんでした。

   そのアスペクト(可能性、欲望))は、ちなみにまだとどまっています。

   まだそこにいてこう言っています。「フーン、君はこの、まともとは思えないスピリチュアルの道に入ったけど、私が与える可能性の人生を見てごらんよ」 そのアスペクトは、別にあなたの人生を気にかけているわけではありません。そのアスペクトはただ自分の満足感を得たいだけなのです。つまり、めでたしめでたしの人生を望んでいるだけで、必ずしも霊的な人生を望んでいるわけではないのです。

   突如としてあらゆるものが崩壊し、あなたは自分がおかしくなったと思います。

   あなたは精神的にだけでなく、肉体的、金銭的、霊的にバランスを失い、もはや何一つ、つじつまが合いません。

   そして、ここが、あなたのすべてのアスペクト(可能性、欲望)たちにとってのパーティ・タイム、一堂に集う時間です。彼らはここで戻って来て、多くの生涯で音信不通だったアスペクトたちが戻って来ます。彼らは別の領域に行っていたのです。それはあなたを信頼していなかったからですが、ふいにあなたの元へ帰らなければという衝動に駆られます。彼らもあなたが聞いたのと同じ呼びかけを聞いたのです。

   彼らもまた何かに掻き回されているかのように感じます。

   そして彼らはあなたの元に戻り、あなたを乗っ取る時なのか、取り仕切る時なのかどうかを確かめます。あなたに今何が起きているのか、好奇心を抱いている者もいます。「ひょっとすると、私たちは本当に故郷に帰れるかもしれない!」 それから彼らは笑います。「あり得ない、あり得ない」。

   あなたのアスペクトたちが戻って来ます。

   中にはあなたを毛嫌いしている者もいれば、バカだと思っている者もいます。権力とコントロールが欲しいアスペクトもいます。そしてこの時期は、あなたにとってもアスペクトたちにとっても、非常に困難な時期なのです。あなたがくぐり抜けようとしているこの時期は壊れやすく、しかも極めて重要な段階なのです。

   覚えておいてください。

   でもあなたは大丈夫なのです。あなたはすでにアセンションしており、今はただ時間を遡り、その到達過程をたどっているだけなのです。唯一後悔するとすれば、大丈夫だということにあなたが気づかなかったことです。それであなたは、自分を大丈夫にするために格闘したことです。大丈夫だと、あなたが信じなかったことです。そしてこの驚くべきプロセス全体を通してあなたが後悔するのは、「しまった! もっと楽しめばよかった」ということです。

   親愛なる私の友人たち、この「目覚めのゾーン」ではすべてが崩壊し始めます。

   それは陰鬱で暗く、あなたはその中で途方に暮れるでしょう。それは肉体の死も含めると、あなたが直面したものの中で最も強烈な死のプロセスともなるものです。

   肉体の死というのはこれに比べれば、まるで天気のいい日に公園を散歩するようなものでしかありません。なぜならそれはただ、肉体のアスペクトを手放すだけのことだからです。一般的に死ぬ何日も前に、肉体から意識が離れていきます。あなたは肉体との繋がりをなくし、ただ次の世界へ行くだけです。

   しかし「セルフ」の死はこれよりもっと困難です。

   それはあなたがいくつもの生涯をかけて入念に構築し、デザインされ、操作してきたセルフです。このセルフはあなたが自分を不滅にするためにデザインしたものですが、突然、あなたはそれが不滅ではないことを発見します。

   私が話しているのは肉体のことではなく、それは人間のアイデンティティ(個性、自分らしさ、支え、慰め)のことです。それは「完成された人間」のようなプログラムです。つまり美しい身体、魅力的な容貌、申し分のない服装のセンス、豊かなお金、優れた知性などです。こうした人間のアスペクト(要素)は、あなたが限りなく地球上に転生することで入念にデザインされ、プログラムされたものです。そして今、それが大きな幻想であったことをあなたは発見しました。

   あなたの思う「完璧な人間」の状態に到達することは決してありません。

   なぜならこのような「完璧な人間」になってしまうと、この惑星を離れられなくなってしまうのを、あなたの内なる何かが知っているからです。よってあなたの魂は、いつかは「帰る」時が来るのを知っています。

   これまでの構造を取り壊す期間は、速い人でだいたい10年から15年続きます。

   もっとのんびりした人なら3つ、4つの生涯をかけるでしょう。途方もなく堆積し、積み重なったあらゆる信念や思い込み、幻想、怒り、傷などの山を考えてみてください。これだけのものを積み重ねながら、あなたというアイデンティティを持つ人間になるために、どのくらい時間がかかったかを考えてみてください。そのすべてを解き放つために、いったいどのくらいの時間が必要でしょうか?

       

アセンションに共通した体験は、自分が完了したと知っていること

   あなたは神性と人間意識が交差するXゾーンにいます。

   そうした女性性と男性性のような、二元性のあらゆる部分が統合し始めているのをあなたは知っています。ここで重要なことは、自分自身への”信頼”です。それもやみくもな信頼ではなく、健全な信頼です。

   あなたがとても適切で自然なプロセスでくぐり抜けていることに、健全な信頼を持っていてください。「あなたもまた神である」ことを信頼してください。それを本当に、あなたの人間の意識に感じさせてください。ですがあなたにとってそれは正しいことだと感じられるでしょうか? 自らを神性へと開くことを正しいことと感じられるでしょうか? それとも行き詰まり、あるいは無限の深淵を覗き込んでいるような感じがするのでしょうか? 

   もしそうであれば深呼吸をしてください。急ぐことはありません。

   信頼はリアルなものでなければなりません。自らの神性に対する信頼は真実である必要があります。信頼を装ったり、操作することはできません。信頼とは、あなたがこれまで知っていたような外にある信念体系や、あなたがしがみつく感情的な信念などではありません。

   このすべてが、神聖な恩寵の中にあることを信頼してください。

   (上の方を指差して)、彼に、あるいは彼女にではなく、守護霊でもなくグルでもなく、あなたが信頼を置くところは”自分自身だけなのです! それはきれいな数珠でもなければ、マントラのようなものでもありません。信頼とはリアルでなければなりません。

思いやりとは、自分のあらゆる部分を受け入れること

   もう一つの要素は”思いやり”です。

   それは自分自身への思いやりです。思いやりとは、あなたのあらゆる部分を”受け入れる”ことです。あなたがこれまで投げ捨て、暗闇に追いやってきた多くの断片と部分が今あなたに戻って来ますが、彼らはあなたの思いやりを感じて受け入れられる必要があります。彼らを「お帰りなさい」と歓迎してください。信頼と同じく、それは正直でリアルなものでなければなりません。

   思いやりはまた、大きなチャレンジを伴うものです。

   あなたが自分に対して思いやりを持つようになると、自分がいかに思いやりを持ってこなかったかという、あらゆる課題が浮上してきます。それは自らに思いやりを持って対処してこなかった、あらゆるものが表面化するのです。あらゆる傷やさまざまな壊れた暗い状況が、あなたの中に浮上します。なぜかといえば結局、そういうアスペクト(座相)場面はあなたの思いやりを求めているからです。

   思いやりとは、あなたの人生に起きた最悪の出来事を見て、まったく違う見方ができる能力のことです。私の言っていることは、偽りの美点をそこに見出すということではありません。それは本当に感じること、本当に理解することを指しています。理詰めで考えず、その出来事では本当は何が起きていたのかを理解することです。実際、何がそこで起きていたのでしょうか? 

   あなたはただ一つの観点、視点からしか見てはいませんでした。

   思いやりを持つためには感情を込めて、フィーリングで見るためには観察者として、あらゆる角度から眺めて見てください。

   (キリスト教信者に向けて)あなたは長い間、十字架を携えてきましたが、本来十字架は苦しみを意味するものではありません。十字架とは神性と人間性がまさに地球で交差することを表しているのです。「X」あるいは十字架を本来の新しい視点から見てください。

   集合意識や闇の勢力、そうしたものにそそのかされた世間全体が、あなたに陰謀を企てているように感じているかもしれません。しかし実際にはそうではなく、それはあなたがあなた自身に陰謀を企てているだけなのです。それだけのことであり、問題はありません。私も自らに10万年の間、陰謀を企ててきました。

   神性は実にシンプルで美しく、純粋ですが、あなた方は神性を複雑にし、ずっと遠くに追いやり、そこに達するためには仲介者や指導者を必要とするという、商業的、宗教的な取り組みが行なわれてきました。

   目覚めると何が起こるのでしょうか? 

   あなたは再び感じ始め、フィーリングを持ち、すべての物事に対する知覚と認識を、さまざまな次元でこの「いま」に持つようになります。

   目覚めとは何でしょうか?

   それはすべてが完璧な状態であると信頼していることです。物事が不完全だという概念は間違いですが、しかしあなた方の誰もがそれを認めており黙認しています。創造とは、たとえあなたが完璧な仕方で選択しなかったとしても完璧なものなのです。

アセンションに共通した体験は、自分が完了したと知っていること

   目覚めのプロセスを引き起こすものは何でしょうか?

   書店でたまたま棚から落ちてきた本かもしれません。あるいはたまたま見た映画に刺激され、人生をまったく異なる視点で見るようになったのかもしれません。あるいは愛する人の死に直面したことが、生と死についての考えるきっかけかもしれません。

   交通事故のトラウマにより、これまでの快適な環境から抜け出ることになったのかもしれません。不意に大きな好奇心を覚えるかもしれません。このようなものはいくつもの転生にわたり、多くの生涯において醸成されてきたものですが、あなたはついにそこに繋がりました。

   次元上昇(アセンション)したマスターたちの目覚めに共通している体験は、一つには自分が完了したと知っていることです。「もう地球での経験はいい。もう繰り返し生涯を重ねるのは終わりだ。もうこれまでのようなやり方で、人と繋がりを持たなくてもいい。ディナーやパーティの席に着くのはもういい。森の中を散歩するのももう終わりだ。セックスはもういい」

   アセンションしたどのマスターたちにも、引き返してあと数回の生涯を送りたいという、非常に強烈な欲求を感じる地点があるものです。つまりこの地球という宇宙船から下船するのは、立派で聞こえはいいのですが、いざ現実にぶち当たるとなかなかそうはいかないのです。あなた方の中には、今回が最後の転生になる人々がいますが、地球には何かとても美しいものがあり、何だかんだと言っても、生きるということは喜びになり得るのです。

   すべてがうまくいく、あるいはうまくいったと分かっているところを想像できるでしょうか? 自分が望むものは本当に、何でも創造できると分かっている状態を想像できますか? 健康の心配も、死ぬことを心配しなくてもよいと想像できるでしょうか?

   この惑星はすごいところなのです。

   宇宙には多くの生命体が存在していますが、人間という生命体に及ぶものはありません。しかもアセンションの入り口になっている惑星は他にはないのです。いつかは誰もが目覚めていき、人によってはずっと後になるかもしれません。

   このようにして、あなたはスピリチュアル系のものなら何でも読み、宗教書を読み、哲学書を読みます。あらゆるチャネリングの本を読み、そしてあなたはスピリチュアルな人になります。私はもうスピリチュアルな存在だと言いますが、それがどういう意味なのかあまりよくわかっていません。でもとても良い気分で、それは名誉の印であり、自分の拠り所であり、あなたが旅の途上にあることを思い出させてくれます。この段階は数年続きます。

     

すべてのエネルギーはあなたに奉仕するために存在する

   あなたはマスター性へと移っていきます。

それはエネルギーとは何なのか、それはどのように作用するのか、それは意識にどのように対応するのかという、本当の理解へと移っていくことです。実はそれは極めてシンプルなものであり、エネルギーはあなたに奉仕するためにここにあることを、深く情熱的に理解するようになります。

   エネルギーはあなたに奉仕するために、ここにあります。

しかもエネルギーはそうしたいのです。エネルギーに命じることについて私たちは話していますが、あなた方の中にはまだ、命じることに抵抗を覚える人々がいます。どうか、エネルギーはあなたに奉仕するためにここにあることを理解してください。そして実際、エネルギーは命じてほしいのです。

命じられないままであれば、それはあなたの人生に引き寄せられることはなく、あるいはかなり混沌としたエネルギーになってしまうでしょう。完全にあなたに奉仕すること以上に、エネルギーの好きなことはありません。

   さてここで、あなたはちょっとした問題に行き当たります。

私はサービス(奉仕)という言葉を使いましたが、あなたはこの言葉に抵抗を感じるかもしれません。それはあなた方が多くの生涯において、常に誰か他人の使用人(サーバント)であったことに由来するものです。あなたは過去世で、王族の使用人や軍隊の兵士、企業の使用人であったかもしれません。あなた方はそれを従業員と呼びますが、私は使用人と呼んでいます。

   そしてあなた方の多くは、上司という立場にいたことがあります。

それは部下という使用人を抱えていた人たちですが、あなたはしばしば彼らを手に負えないと思ったり、あるいはあなたは彼らを公平に扱わなかったかもしれず、彼らを苦しめて、彼らのエネルギーを盗んだのかもしれません。あるいは彼らに当り散らし、こう言ったかもしれません。

「もうこんなことはしたくない。私は支配者になったり王や女王、上司になんかなりたくない。こんなことはもう放棄する」。そしてこの、「自分はもうこんなことはしたくない、もうするもんか」というあなたの思いのすべてが、あなたを(あきらめと放棄の)「無の地点」へ陥(おとしい)れました。つまり、何もしない場所です。

   どうか理解してください。

エネルギーはあなたに奉仕したいのです。そして実際に、たくさんの人があなたに奉仕したいと思っているのです。私たちのこのクルーズ船の、スタッフが付けている名札のスローガンに気がつきましたか? それは「情熱的なサービス」と書かれています。エネルギーは本当に、情熱的なサービスであなたに奉仕したいと思っているのです。

   たくさんの人間がいまでも奉仕の仕事に就いています。

それはあなたがそうであったように、それが彼らの進化の一環なのです。それはあなたの学びの一環であり、あなたもまた多くの生涯を他人の使用人として過ごしてきました。あなたはそこから学び、ついに「あなたもまた神である」ことを学びました。もう他人の使用人でいる必要はありません。多くの人々もまた学んでいくでしょうが、現在のところその状況は彼らが選んだ道なのです。

   マスターは他の人間を自分に奉仕させてあげます。

これは少し奇妙に聞こえるかもしれず、あるいはあなたの(過去世での)古い記憶が蘇えるかもしれません。ですが親愛なる友である皆さん、立ち止まって、それについて考え感じてみてください。つまり他の人間を通して、ガイア地球を通して、呼吸している空気を通して、すべてのエネルギーは奉仕のために創造されました。エネルギーはあなたに奉仕したいのです。それが、いまエネルギーがあなたのためにやりたいことなのです。

   そして、あなたに提案します。

エネルギーをあなたに奉仕させ始めてください。ですが、そうなっても驚かないでください。ちょうど良い時にピッタリの人が現れても驚かないでください。必要な時にアイディアが出てきてもビックリしないでください。共時性シンクロニシティ)は珍しいことではなく、それが日常的なことになっても驚かないでください。それが、たった今あなたに起こります。エネルギーはここにあり、あなたの扉をノックし、あなたに奉仕する準備ができています。

   前の質問に戻りますが、あなたは何が欲しいのですか?

エネルギーがあなたの扉をノックしているいま、あなたが欲しいものは何でしょうか? これはトバイアスが「分離の地点」と呼んでいるものであり、あなたはいまこれまでの古い自分自身から旅立ち、拡張した意識のまったく新しい時代に入ろうとしています。あなたの欲しいものは何でしょうか? それを選択し、それを楽しみ、エネルギーをあなたに奉仕させ始めてください。

   本物のマスター

本物のマスター、つまり自分自身への「気づき」を持つ「アイ・アム」(私は私である)のマスターは、実は最善の奉仕を提供していることをあなたは理解するでしょう。いったん自らのマスター性を理解し、エネルギーがどのように作用するかを理解するならば、あなたは使用人にならずに奉仕することができるようになります。つまり、まったく違うレベルで他人に奉仕することができるのです。

  マスターだけが、本当の奉仕をすることができます。

それ以外の人たちは、使用人にすぎません。マスターは、結果を気にしません。マスター性とはシンプルです。「私は私である」はシンプルで、誰からも何ももらう必要がなく、あらゆるものを分かち合い、与えることができます。それは自己充足であり、他人から取る必要も、与える必要もない。しかし私は表現し、分かち合う喜びという情熱を持っている。それがマスター性です。

   エネルギーに奉仕してもらう準備はできていますか?

本物のマスターになる準備はできていますか? それについて考えるのではなく、それをやる覚悟はありますか? 心を開き、エネルギーを表現し、エネルギーと一緒になる準備はできていますか? それについて考えるのではなく。親愛なる友である皆さん、立ち上がってください。あなた方はどれほどの生涯を他人にひれ伏し、跪(ひざまず)き、腰をかがめ、お辞儀をしてきたのでしょうか?

今、私たちはこのエジプトの地に来ていますが、私たちとともにあるのは古代の人々のエネルギーです。それは自分の力でマスターになった人々や、未だに岩や大地、大気に閉じ込められており、「新しいエネルギー」のマスターたちがやって来て、次のように言うのを待っている人々です。「やっとわかった。私はついに理解した」と。

そしてあなたは彼らのバトンを引き継ぎ、彼らのような古いやり方にはまることなく、あなたの新しいやり方でエネルギーを進化させることができます。エネルギーと遊び始め、エネルギーを動かし、それを体験してください。それくらい簡単なことなのです。

           

 

人間は過去のプログラミングの中に生きている

   あなたの魂は体験を求めています。

   つまり、体験なくして自分自身を知ることはできないからです。ゆえに魂は、さまざまな多種多様な体験を自分自身に準備します。魂はまた、自らを拡張し続けることを求めています。それは喜びを表現することであり、あなたはそれで充足感を得るのです。

   その表現が、たとえば歌うことであったり、音楽を奏でたり、本を書いたり、仕事をしたり、ろくでもない人間関係や、健康問題を作り出すことを通じて行なわれる表現です。これらのすべてが表現の形態です。

   生き残るというのは、レムリア時代の古いプログラミングです。

   あなたはこれまでも繰り返し地球に転生してきましたが、それは体験することが目的でした。しかしそれを繰り返すうちに、あなたはそこに囚われてしまったのです。実際にはあなたは「生き残る」必要はなく、そこではただ「生きる」必要があるだけなのです。

   あなたはそこで、生き残るという古いプログラミングを学びましたが、それは本当に痛みと制限を伴うものです。私はあなたが、生き残るというプログラミングを解除してほしいと願っています。

   「快楽への欲求」は、アトランティスの古いプログラミングです。

   それはすべての人間にプログラムされた快楽の中枢に由来していますが、それは何のためにあるでしょうか? それはちょっとしたご褒美(ほうび)があれば、人間を一生懸命働かせることができるからです。

   つまり、少しのセックス、少しのアルコール、少しの承認、少しの力です。

   こうしたものがあなたの内側にある、慰めと快楽のエネルギー中枢なのです。私はまた人間が、慰めと快楽のプログラムを解除するのを見たいと思っています。

   本来、1日の終わりに、少しのアルコールやクッキーは必要ありません。

   砂糖は素晴らしい発見ですが、それはあなたに催眠をかける覆いのように働きます。砂糖が悪いと言っているわけではありませんが、砂糖はあなたが気分良く感じる何かを誘発します。子どもには砂糖が与えられますがなぜでしょうか? それはおとなしくさせるためです。砂糖は身体に良いわけではなく、それは気分を高揚させる催眠薬です。

   人間は、生き残りたい、快楽、慰め、コントロール、力のようなものを求めており、こうしたものが大好きです。そのために、自分のアイデンティティ(自分の拠り所や自信、支え、慰め)を確立しようとするのです。

人間の運命は内なる本質的統合

   人間が現在、存在しているアスペクト(座相)(周波数帯域の特徴)は、自らを孤立させ、(自分の支えとなる)アイデンティティを生み出してはそれを守ろうとします。一方、(人間の本質である)霊は、体験することで拡張し、自らを表現するものです。しかし人間の(表面意識は)、(自分の支えや自信である)アイデンティティを頑なに守ろうとするので、自分自身を拡張させたり、表現させることができません。

   それが人が変化を拒む理由であり、それが自身の向上に役立つものであったとしても、(それらすべてを)自分のアイデンティティへの挑戦と受け取るのです。

   こうして(本質的)魂は魂のダンスをし、人間意識は人間のことをやっていきながら、両者の波形が自然に離れていく時期があり、これまでがそうでした。最終的には霊である魂と人間の表層意識は再び一緒になります。このようにして両者の波形は絶えず行き来をしながら、離れたり、一緒になり、また離れます。(P.33の図を参照)

   最終的に、霊(である本質的魂)と人間意識は、非常に親密なかたちで交差し、一緒になります。それは分離ではなく、絶え間なく互いへと織り込まれていく動きです。その最初に交差する場所が臨界点で(P.34の図)、これが「気づきのゼロ地点(グランド・ゼロ)」です。

   このようになったとき、言い換えるとあなたは、これまで踊ってきた古いダンスや古い過去を手放すことができたのです。それらは体験の一部にすぎず、今や両者は共にダンスを踊ります。このシンボル(図d)は、カトリック信者の人々には馴染み深いものだと思いますが、実はこれは何を意味するか知っているでしょうか?

   このシンボルはイエスのいた時代に由来しています。

   (これは魚の形ちをしており、魚が口を開けた形ちのローマ法王の帽子に用いられている)  これは、イエスが人を漁(すなど)る者だったという概念からきていると教えられているでしょうが、まったく違います! このシンボルは、これまで常に人間意識と魂が分離していたものが、目覚めの過程でついに一緒になることを表した統合のことなのです。

   精神的にバランスを欠いた人はエネルギーバランスが不規則で、機能不全に陥った波形を描いています。人間の持つ波形は周波数帯域や集合意識のような要素に影響を受けると、まもなく本質と意識の両者は分離し、完全に互いを見失います。

   その結果、人間は精神のアンバランス、つまり精神病や精神疾患、神経衰弱、多重人格などのあらゆる症状を抱えることになります。このような症状はいずれもマインド(表面意識)を通じて焦点が合わされていますが、実は魂と人間(本質と表面意識)がつくり出す自然なリズムが機能不全を起こしているのです。

   今あなた方人間は、本質と表面意識が最初に統合する地点にいます。

   そして互いが交差する地点から先には、もはや互いの波形には分離はありません。そしてあなた方は、統合された(本質的)「意識体」になります。

      

 

「目覚める」時、古い信念体系は機能しなくなる

   人間は自由意志を持っているのでしょうか?

   いいえ、持っていません。まったく持っていません。もし持っていれば、あなたの人生はもっと違うものになっていたでしょう。ほとんどの人々はカルマだけでなく、宗教や霊性、占星学、それに疑いや恐れ、罪悪感、慣習などの多くの時代遅れの信念体系の影響下に生きています。

   でも人間は、自分たちは自由意志を持っていると思っています。

   「自分は好きな時に今の仕事を辞める意志を持っている」と思っています。だが実際にはどうでしょうか? 彼らは仕事をやめません。給与が入ってこないのが怖いからです。「私は自分が好きなところに住む意志を持っている」 しかし実際には、好きなところに住んではいません。生まれた場所に、その同じ町に、パパとママの隣に住んでいるのです。

   かつて人間には自由意志がありました。

   ですが使うのをやめてしまったために使えなくなり、今ではもう自由意志はありません。人間は自由意志を持っているフリをしているだけなのです。自由意志があるという「幻想」は持っています。ランチに何を食べるかは選べます。職場に青いセーターを着ていくか、赤いシャツを着ていくかは選べるからです。

   ですが、人間は自由意志を持ちません。本当に持ってはいません。

   これであなたが少しは腹を立てればよいのですが。あなたはただ、自分は自由意志を持っていると思いたいだけなのです。しかし今となっては、失ったものを懐かしく思うだけでしょう。

十字は統合のシンボルだったが、宗教的催眠に利用されて意味が変えられた

   魂の目的は、その人間の表面的意志よりも霊的な目的を優先します。

   これが、今までのあなたの人生に起きたことの多くを説明してくれるでしょう。それは何もあなたの本質的魂が、あなたにわざとネガティブな体験を押し付けたわけではないのです。ただ魂という神性にとっては、人間が必死にコントロールしようとし、快楽を享受し、制限されたアイデンティティを作り出し、生き残ろうとする試みよりもずっと大切なものがあるのです。

   霊は生き残り、死はありません。

   (キリスト教信者に向かって)、あなた方の罪をあがなうために、イエスが死んだわけではありません。実にあきれてしまいますね、イエスがあなたの代わりに死んだと思うなんて、うぬぼれています。イエスは十字架上で死んだのでしょうか? いいえ、彼は十字架上で生き返りました。

   ちなみに十字架のシンボルはそれから何百年も後になって、教会が人々を宗教的催眠にかける一つの形態として生み出したものです。あなた方は「彼があなたの罪のために死んだ」と信じています。それは事実ではないし、あなたの罪のために死ねる人などどこにもいません。

   十字架のシンボルは本来、先に話した魂と人間意識の交差するところ、つまり霊と人間意識が一緒になることを意味していたのです。しかし今ではそれは(真反対の意味の)苦悩と痛み、罪悪感、コントロールの象徴として使われています。

   親愛なる友である皆さん、イエスは十字架上で目覚めたのです。

   その後、彼はマグダラのマリアと愛し合って楽しく暮らしました。彼らには子どももいましたよ。

「目覚める」時、古い信念体系は機能しなくなる

   「目覚めのゾーン」、つまり霊と人間の波形が最初に交差する地点では何が起こるのでしょうか? そこではもはや古い公式は機能しません。公式(マニュアル)とは、人間が人生に対処するために作り上げたものです。あなた方は決められた公式に従って生きる傾向があります。それはちょっとした検閲済みの信念体系であり、スーパーで買う冷凍食品のパックに似ています。

   もちろん、公式の中には適切なものもあります。

   車を運転するためには、共通する公式は実用的です。しかし一方で、ほとんどの人々はあまりにも公式に囚われています。どんな服を着るか? (結婚式に、葬式に、仕事に、歳相応になど)これは公式です。そこには実に無数の公式があります。食べ物の摂り方、仕事の仕方、お金の稼ぎ方、教育を受ける方法、さらには死に方まであります。

   あなた方には決められた行動や習慣があり、自分は秩序をもって行動していると思いたいことから、人間は何度も何度も同じことを繰り返します。しかし実際には秩序などないことを知っていますが、決められた公式、マニュアルは慰めにはなります。

   こうした公式、検閲済みの信念体系は、「目覚め」の前の段階において作り出されるもので、あなた方の拠り所となるものです。しかしあなたが「目覚めのゾーン」のX(エックス・神性と人間意識の統合点)に達すると、もはやそれは機能しなくなります。

   それは拠り所を失ったりすることで、すべてが崩壊して、自分がどこかへ突き落とされたように感じる状態です。しかしそれは真実ではなく、ただそう感じるだけなのです。そうした体験もあるでしょうが、それも一つの体験に過ぎません。

   自分が拠り所としてきた検閲済みの古い公式は、あなたにはもはやうまく機能せず、そのことはおそらくあなたの人生でよくわかっているでしょう。あなたは時に古い信念体系に戻ろうとしましたが、それはもううまくいきません。

   必然的に次のステップは、新しい公式を生み出すことになります!

   しかし、本物の新しいエネルギーは公式として限定することができないものです。古いエネルギーは振動していて予測可能なものでしたが、それは振動のエネルギーですらなく、パターンを持たないものです。

   あなた方は昨日行なったことを、今日も繰り返すことができました。

   そのためにあなた方は、危機や混乱状態に陥るまで限りなく繰り返し続けるのです。公式はもう必要なく、プロセスや手順すらいりません。

   プロセスがそこに内在しており、しかもそれが変化するので、あなたのマインド(表面意識)が混乱するのです。そうした中で、あらゆるものが崩壊していくように思えるでしょうが、そうではありません。それは再び組み立てるために再構築の下準備をしているのです。

     

 

「意識体」という気づき

 「目覚めの領域」においては、他にもあなたの注意を逸らすものがたくさんあります。

     中でも最大のものは、霊的な傲慢さです。それはあなた独自の霊性です。あなたは自分自身に非常に没頭し、それは実際気分のいいもので、それを通してあなたは多くを学んできました。

   しかし一方で、あなたは自らの構造を取り壊す代わりに、そうした古くなった霊的価値を膨らませるようになります。突然、あなたはグルになり、賢い聖人になってしまいます。そうした立場に自分を置くのは、他人よりも優位に立っている感じがしていいものです。そしてあなたは他人に向けてこの役割を演じるのが気に入っており、あなたはその地位に留まりたいと思う傾向があります。

   あなたは新たに見つけた霊性が気に入っていて、いい思いをしているのに、わざわざ、さらに先に行く必要があるでしょうか? あなた方の多くは現在、この場所にいます。こうした融合を感じて体験しています。それはこれまでに感じたことがないほどの、自分自身の感触と囁きを感じているのです。自分自身の本質は「意識体」という気づき

   あなたがあなたという人間を構成する要素だと思ってきたもの、つまり肉体、心、精神について話してきましたが、そういう分離はもう一掃する時期にきています。自分自身をそうした個々の構成要素として捉えてしまうと、それぞれが互いに切り離されてしまいます。ですが、もうそれを超える時期に来ています。自分自身を「意識体」として意識する時です。

   もはや肉体と精神、あるいは人間と神性、善と悪、光と闇、男性と女性でもなく、あなたは「意識体」です。それは身体全体であり、主権を持った統合体としての身体です。あなたは意識体であり、意識とは気づきです。あなたは完全で完璧な「意識体」なのです。

   あなたはこれまで自分自身のある部分を無視し、ずっと遠くに追いやってきましたが、そうしたものもあなたの「意識体」と融合します。あなたの全体である意識体は、これまでのあなたのすべての体験だけでなく、あなたの人生では演じられることのなかった、他のすべての可能性をも包含しています。

   神とは何でしょうか? それはあなたと同じものです。つまり、意識であり、気づきなのです。神の霊とあなたは一つものであり、あなたもまた神なのです。神の霊はあなたと同じように「意識体」であり、その霊は肉体や人間のマインド、人間の感情を持ったことはありません。

   「意識体」の意味を理解するようになると、あなたは自分自身を超えて、自らの意識を他へ投影することができるようになります。たとえば、あなた自身を犬や猫に投影することもできます。私は犬の中に意識を拡張するのが大好きです。それは犬のマインドを乗っ取ったり、コントロールすることではなく、ほんの短期間、犬の肉体の現実に浸ることが可能です。

   それと同じことがあなたにもできます。

   それはあなたが猫や犬に変貌するということではなく、あなたの意識体を別の意識体へ拡張するということなのです。惑星の反対側にいる犬や猫、あるいは鳥などあなたが選ぶものの何にでも、自分自身を拡張することができます。たった今、ノルウェーのある町の、特定の家や地域で起きていることを、鳥を通じて認識することができます。このように「意識体」を拡張することで、あなたはそこに留まることができます。そして本当にそこにいるのです。

「本物の声」を聞くためには、自分自身に対する無条件の信頼が必要。「本物の声」が意識体の声なのです。

   それは統一されたものですが、神性だけの声ではありません。あなた方はこの神性を分割してきましたが、今ではそれをどこにしまい込んだかも覚えていません。意識体は神性を備えており、それは人間でもあります。それはメンタルでもあり、あなたの未来の可能性でもあり、決して現実化しなかった過去の数々の可能性でもあるのです。

   過去にあることが起こったというのは偽りです。たとえば過去に、あなたがひどい病気に罹ったという出来事があったとします。あなたは人生のある時期ひどい病気になり、ほとんど死にかけたことがあると信じており、あなたはそれを起きた出来事として記憶します。しかしそれはあなたの物語、歴史であって、現実はまったく違うのです。それは数多く存在するリアルな可能性の一つであり、この現実でたまたまあなたが現実化したものなのです。

   つまり別の現実には、非物質的な形態で現実化した多くの可能性がありました。実際にはあなたは他の数多くの可能性も検討し、別のレベルで考えていましたが、それらが顕在化することはなかったのです。ですから、起きたのはその一つの出来事、とあなたが思っているようなものではなく、あなたの数々の可能性が、あなたの本物の歴史なのです。

   本物の声が「意識体」なのです。それはまさにこの瞬間の「アイ、アム」(私は私である)です。昨日のことは重要ではなく、過去の生涯は関係ありません。未来の可能性の数々はこの瞬間からしか思い巡らすことはできません。これからの何年間にわたり、あなたにはたくさんのことが起きてきますが、それを今ここで熟考してください。ただしそのためには、あなたは自らの「声」を信頼できなければなりません。

   あなたがなぜ頻繁に、過去や未来に自分を投影してしまうかといえば、それはあなたが今この瞬間にある「声」を信頼していないことが原因です。今日、私たちが(この集まりで)やるのは、自分の声を信頼するためのプロセスを始めることです。そして同時に、他からやってくるさまざまな声が、いったいどこからやって来るのかを理解していなければなりません。そうした声には、集合意識や地球外生命、それ以外に肉体を持たない霊的存在たちがいます。

   あなたの「意識体」の声は言語ではなく、フィーリングであり、この瞬間の「ノウイングネス」(知っている状態)であり、それが声です。あなたは頭の中で言葉や音を聞くことはなく、おそらくハートに、あるいはお腹に何かを感じるでしょう。それは黄金の、蜂蜜のような甘い温かいエネルギーが、頭のてっぺんから足先にまで流れてゆき、あのゾクゾクする感じが起こります。それが、声です。それがあなたのノウイングネスであり、あなたはそれを感じて気づき、聞くのです。

   それはあなたの人間的な属性を備えている、あるいは備えていないかもしれません。

   この声は「普遍性」です。それを聞くためには、無条件の信頼が、あなた自身への信頼が必要になります。この聖なる安全な空間において、あなたはあなた自身の本物の声を聞くことができます。それが、あなたの意識体の声であり、気づきの声です。

神は崇拝を求めることもなければ、される必要もない

いま、何が起きているのでしょうか? それは神々(ET・地球外生命体)の戦争です。たったいま、あなた方は地球上のあらゆるところでそれを目にしているのです、あなた方はそれを戦争とは呼びたくないかもしれませんが、それは地球における完全な全面戦争なのです。あなた方は神々のイザコザを目にしているのです。

   そうしたことのすべては、人類が内なる神を理解したいという心からの欲求と関係していますが、ほとんどの人間はそれを達成するための概念を何一つ持ってはいません。そこで彼らの宗教の教義や経典、予言者を通じてそれらが外面化されることになります。その結果が神々(ET)の戦争なのです。

「地球に近い領域」、低層4次元。 ではそうした神々の戦争は、いったいどこで繰り広げられているのでしょうか? 

   それは地球上ではありません。ある意味で地球にいる人間たちは、「地球に近い領域」(低層4次元)で行なわれている神々の戦争の操り人形であり、そこが本物の闘いが行なわれている場所です。

   「では地球に近い領域」とはどこにあるのでしょうか? それは物理的惑星である地球に近接した、エネルギー的な次元にあります。そこは非物質的な場所ですが、地球と密接な関係にあり、それは地球を取り囲むように存在しており、そこには実に数多くの層があります。

   地球の始まり、あるいは地球上に人間がやって来た当初は、実はそうした「地球に近い領域」は存在していませんでした。しかし意識体が肉体に転生し始め、肉体が死ぬようになると、人間は死んだときに地球の体験を手放したくないと思うようになりました。そこで私たちが「地球に近い領域」と呼んでいる、この領域に行くことにしたのです。

   その場所は、あなた方の多くが、転生と転生の間に行ったことのある場所で、ほとんどの人間が死後に行く領域です。彼らはそこに着いてからも、物理的地球にいた時に信じていたことを、引き続き行ない続け、体験し続けます。それはこれまで、気が遠くなるほど無数の人間たちの転生が繰り返されてきたことから、この「地球に近い領域」の場所がいかに混雑を極めているかが、想像できようというものです。

   仮にあなたが仏陀を信仰していて、死後「地球に近い領域」に行くと、その小さな一角の仏陀と一緒にいられると思う場所に行きます。あなたはそこで念仏を唱えたり、仏陀を崇拝したりし続けるかもしれません。自分をどれほどよく思っているかによって、あなたは仏陀に会うかもしれないし、会わないかもしれない。それはともかく、仏陀はそこにいるのでしょうか? まさかね。

   イエスを崇拝している人たちも同じです。 あなたが強くイエスを信奉しており、救い主だと信じているならば、おそらく死んだ後「地球に近い領域」にある、救世主イエスを崇拝できる場所に行くでしょう。そこには非常に多くの者たちがイエスを待っており、キリストの再臨と、携挙(けいきょ・再臨したキリストと共に挙げられて、永遠の命を得るという終末論)の実現を待っています。

   しかしあなたがイエスに会うことはないでしょう。 なぜならあなたがそこ「地球に近い領域」に行くとすれば、自分にはそのような価値があるとは思っていないからなのです。つまり、自分がそれに値すると思っているならば、そこには行かず、どこか別の場所にいるはずだからです。

   あなたが敬虔なモルモン教徒であれば、モルモン教の天国に行くでしょう。

   それも同じく、「地球に近い領域」にあるモルモン教の天国です。そこは非物理的次元(の低層4次元)ですが、地球でのそうした特性と密接に結びついていて、自らの信念を行動に移しているモルモン教徒で溢れ返っています。

   カトリック教徒の中には、自分たちには特別な場所があると思っている人たちがいます。そのゆえにそれは「地球に近い領域」(低層4次元)の中でも他の場所とは違うところです。彼らはそこでもやはり大聖堂や教会を建て、聖人を崇拝し、聖体拝領を行ないます。

   もしかするとあなたは、自分の子どもたちや愛する人に対して取ってきた自らの態度に、後悔や悲しみを感じているかもしれません。するとあなたは「地球に近い領域」に居座り、地球にいる家族を導き助けなければと思うでしょう。そしてこの罪悪感が、あなたを彼らに、この惑星に、結びつけることになるのです。

   人間は死ぬとほとんどの場合、別の領域に行った後も、それまで信じていた宗教的信念を行い続けるものです。ユダヤ教徒モルモン教徒、カトリック教徒、イスラム教徒、仏教徒のグループ、その他さまざまな新興宗教など、例を挙げればきりがありません。しかも「地球に近い領域」では、狂信的な人々は、自分たちのグループへ他の存在たちを勧誘さえしており、それはまさに肉体を持っていた時の地球での行動そのままです。

   ちなみに彼らは、自分が実は死んでいることを常に認識しているとは限りません。

   ですから彼らは合理的な理屈を通して、「そうか、私は死んだのだ。今自分は本物の天国にいるわけではなく、天国のような場所にいるだけなのだ」とわかっているわけではないのです。

   この「地球に近い領域」は、このような非常に多くの宗教的エネルギーでとても混雑しています。そしてこうした存在たちの多くは、未だに自分の宗教的信念を狂信していることから、ここで戦争を始めます。しかしこれは必ずしも地球で行なわれているような、銃や爆弾を使った戦争ではありません。「地球に近い領域」(低層4次元)での戦争とは、心理的戦争です。それはエネルギー戦争であり、地球が創造されるよりずっと前に起きたことのある「天使たちの戦争」に似ています。

   「地球に近い領域」で起きているエネルギー的戦闘では、宗教の一派が別の宗教の一派と戦います。その勢いを維持し、エネルギーを高めるために、彼らは地球上のある宗教的支配者集団に繋がります。すなわち、それがキリスト教会です。そして地球のこうした組織は、「地球に近い領域」にいるグループにとってのエネルギーセンターとなり、エネルギーの接続点になります。(信者のエネルギーはアンテナとしての尖塔を通して送られる)

  このように宗教的信念への情熱のゆえに、このエネルギー的繋がりはとても強固です。

   こうした神々の戦争は、現在とても激しくなっており、それは今後何年も続くでしょう。これは地球上の宗教団体同士の関係に、影響を及ぼしていきます。多くの国の政治機構が、一神教の宗教を基盤にしているために、国家間の緊張も続くでしょう。

神は崇拝を求めることもなければ、崇拝される必要もない。では誰が崇拝を求めているのか?

   主流の宗教団体から離脱したグループが、より狂信的になっていくでしょう。 こうした闘いには、多くの宗教が含んでいる愛や霊性は存在しません。それは単なるメンタルな対立であり、言い換えれば宗教が持つ聖典やルールに関するもので、それは人間によって作られた神を崇拝する手段です。そしてこれは危険なものです。そもそも神は崇拝を求めることもなければ、される必要もありません。

   そして宗教が人間をコントロールするために一番手っ取り早く、効果的なやり方なのです。それが現在の地球上でこれまで行なわれてきたことであり、今も行なわれている強力な催眠を与える方法なのです。この神々の戦争は、今後数年間にわたり重要な要因となるでしょう。ですが怖れる必要はなく、驚くこともありません。ですから”関わらないでください!” 関与しないでください!”

   そしてあなた方も初期の段階で、あなた独自の神々の体験をしました。 何を信じ、何を信じるべきでないか、あるいは公正さ、自らの判断について独自の闘争をくぐり抜けてきました。それは自分のルールに関してで、何が正しくて、何が間違っているか、何が光で何が闇なのかと、多くの闘争で自分自身と闘ってきました。いまではあなたはずっと賢明で、よりバランスが取れており、あなたの内なる神を理解しようとしています。ですからこのような他の神々の戦争には決して関らないでください。

   神についての答えは一つしかありません。 そして真実は一つだけで、それは完全に個人的なものです。神についての答えを、さまざまな宗教組織や教会を通して見出すことは決してありません。そうしたものはたまにサポートを提供することはできても、あなたに答えを与えることは決してありません。

   答えは常に内側からやってきます。 答えとは「アイ・アム・ザット・アイ・アム」(私は私である)であり、それは解釈を超えたものです。つまり、悟りを誰かから、あるいは何か他のものから得ることはあり得ないのです。

自分のありのままで生きる。 精神のアンバランス、不均衡は、現在、人類が直面しているものの中でも最っとも大きい問題です。人類1人1人の精神の偏り、つまり精神がバランスを失っている状態は重症とも言えるものです。私たちは心理的なアンバランスに対処するにはどうすればいいかについて、新しい方法を見ていきます。

   現在、地球上の人間たちのマインド(表面意識)は膨大な量のストレスを抱えています。私が話しているのは神経症統合失調症精神障害などと分類されている人々についてです。それは、生まれつき精神的に制限を抱えた人たちについてではなく、それは別のカテゴリーです。知育発育不全や精神的制限を持って生まれた人たちのほとんどは、実はカルマの結果を体験しています。

   私がここで述べている精神のアンバランスとは、脳への過大な負担の結果生じたものです。そこで、脳に本当は何が起きているのかを見出すために、すべての層を剥ぎ取ってみると、その原因は精神的なアンバランス、偏りであることがわかり、それが流行(はや)り病いであるのがわかります。

   あなた方はもう、マインド(表面意識)だけで生きることを超えるべき時に来ているからです。未だにほとんどの人々が、表面意識や頭脳だけが人間の知性の最高の形態だと考えていますが、それはまったく正しくありません。あなたの「意識体」の内側には膨大な知性形態が備わっており、それらが実際には人間たちの人生体験に関わるべきものなのです。

   時に、人生において大きな体験や変容をくぐり抜けている時、あなたはその出来事やそれがもたらすショックから、自分はちょっとおかしいのではないかと思うことがあります。そして精神科にかかると医者もそのように分類します。ほとんどの場合、あなたは自分の内面で何が起きているのかわからず、医療関係者もそうしたことをまったく知らず、理解していないのです。

   現在の地球上では、膨大な人々がこうした精神のアンバランスを体験しています。

   そして医療にかかると、彼らのほとんどはさまざまな投薬治療を施されますが、それはごく表面的な解決策でしかありません。しかもこうした薬品を長期間にわたって摂取し続けることは、まったく摂取しないよりもダメージが大きいことを、今では多くの人々が知っているのも事実です。こうした薬品はさらなる鬱だけでなく、自殺衝動を引き起こします。なぜならその薬剤の摂取が、自然な治癒プロセスを妨げてしまうからです。

苦しい時期、誰もが精神障害だった時がある。 少しの間、過去10年、あるいは20年を振り返り、あなたがこれまでの人生で、目覚めの過程でくぐり抜けてきた、内なる闘いや葛藤を振り返ってみてください。苦しくて、自己批判的で、憂鬱な時期をくぐり抜けるのはどのようなものでしたか? それというのもすべて、あなたの内側で神性が目覚め始めていたからであり、マインド(表面意識)にとっては試練の時だったのです。

   そして同じく、ここには目覚めようとしている苦しむ1人の人間がおり、しかしその人は自分において何が進行しているのかさっぱりわからず、医療に助けを求めた結果、精神障害の診断を突きつけられているのです。

   精神のアンバランスは、地球上ではすでに異常な割合にまで達しており、エネルギーが爆発的に放出されるか、あるいは統合され、とにかく何かが起きなければすまない状態になっています。

   自分に完全な信頼をしてくださいと私は言っていますが、それは表面意識のコントロールを手放すことにも関係しています。つまり、あなたが内の顔と外の顔をコントロールして繕(つくろ)うことをやめ、ありのままで生きられるようになれば、あなたが内なる世界を広げ、自分自身を信頼するようになれば、それはあなたの意識に影響を与えるでしょう。

   そうしたことに焦点を合わせるようになれば、人間が精神的アンバランスに対処する方法が変わってくるでしょう。

   

                               

人間は自らの「自由意志」を引き渡してしまった

   あなたは一度に一つ以上の現実を体験することができます。ですがあなたは、一つの現実を選択してそこに注意を集中することに慣れています。つまり起きているのはそれだけであると信じているのです。しかし過去、現在、未来は無数の可能性に満ちており、この数々の可能性は、あなたが現在体験している可能性と同じようにまったく活発で有効なのです。

あなたは単一で現実化する体験というものに慣じんでいます。その意味は、通常のあなたは一つの直線的な現実だけしか認識していないということです。例えば今夜、あなたはあるテレビ番組を見ようと選択します。それはとても安心できることでしょうが、実はさまざまな多くのテレビ番組を一度に見ながら、それを同時に気づいていることが可能なのです。

   これは多重の現実化として知られているものであり、つまり同時発生する出来事を一度に認識するというものです。初めのうちはとても違和感があるかもしれませんが、面白そうです。あなた方は数多くの生涯を転生して過ごすうちに、一度に一つの現実だけを現実化することに焦点を合わせて来たために、一つの直線的な体験しか処理できないはずだと、あなたのマインド(表面意識)は信じ込んでいるのです。しかし現実には、あなたは多くのことに対処することができます。

   分析的なあなたの表面意識は、そんなことができるわけがないと思います。

   同時に多重の夢を見るなどできるわけがない。本を読みながら同時に飲み会を計画するなんてできるわけがない。電車に乗りながら、同時に海岸を歩いて写真を撮るなんてあり得ないと思うのです。

   そのためにはおそらく、あなたには必要な試練が待ち受けているでしょう。

   なぜならあなたのアイデンティティですら、その必要はないのに単一の直線的な現実を基盤としているために、そのアイデンティティを失い、それを拠り所としてきた自分自身を捨てる必要があるからです。

   あなたは同時に、多重の現実化を体験することができます。

   それと遊んでみてください。想像してみてください。そうすれば、実はその方がより自然な存在状態であることが分かるでしょう。

   円の中に「点」のあるシンボル(本書のP.156)は、「蛇の目」(circumpunct)としても知られています。中心の点は「源」であり、「すべてであったもの」、「永遠なる一」を表しています。これはまたあなたの魂、あるいは神性のシンボルでもあります。外側の円はあなたの魂の拡張、または旅を表しています。円の内側に含まれているのは、あなたのこれまでのすべての体験です。すなわちこれまでの過去の生涯や体験であり、この時点までに起きたことのすべてです。

   またこの円はとても重要なものを表しています。

   それは自分を守る「殻(から)」であり、あなたが守っているものは自分の魂であり、神性です。なぜならあなたは自分という魂、その「点」は、純粋で壊れやすいものだと思っているからです。ですから外からの影響や二元性の勢力のような、あらゆるもので汚したくないからです。

   つまり神性の周りに殻を持っていれば、闇が入って来ることはできないという、誤った信念をあなたは持っているのです。しかし本当の問題は、あなたの闇も光もすでに”その中にある”ということです。本当の問題は、あなたが闇を締め出していることではありません。本当の問題は、あなたが闇を中に入れたままにしていることなのです。

   そして神性を守ろうとするこの試みが、あなたの意識の拡張を制限してきたのです。しかしそれはごく簡単に改善することができます。深呼吸をし、大胆に、怖れることなく、ここ、つまり(円の外側)には何一つ心配したり怖れるべきものはないことを覚えておき、意識的に拡張を選択すればいいのです。

   今ここにあるのは、あなたの未来の可能性の数々に過ぎません。

   あなたには神性の意志と選択があるので、あなたの至高の善になるもの以外をあなたが選択することはありません。その選択があなたにとって至高の善になるのであれば、他人にとっても至高の善になると見なしてよいのです。

   この円の外側にある可能性の数々は、あなたの想像を超えて膨大なものです。

   信じられないかもしれませんが、あなたがその一つひとつをすべて創造したのです。そこには沸き立つような興奮もあれば、インスピレーションに溢れたもの、気が滅入るもの、悲しいものがあります。あるいは怖ろしいもの、楽しいものもあるでしょう。それはあなただけが、自分が体験したい可能性を選択できるのです。

   あなたの可能性のフィールド(領域)を、他の誰かの可能性が干渉することはできません。ただし、あなたがそれを許容し、それを選択しない限りにおいて。同じく彼らがそれを許容しない限り、あなたも他人の領域に干渉することはできません。しかしいうまでもなく実際には、ほとんどの人間は無意識にそれを許容しています。

   もしあなたが自らの主権性を選択し、固く掴んでいる大衆意識という集合意識を手放し、大衆意識の信念である「運命がある」という信念を解き放つならば、あなた独自の個人的な可能性の美しさを体験することができます。つまり円の外側の領域は、運命や宿命、前もって決められた道、あるいは外側の神が決めるルールなどは必要ありません。

   すべて、あなたのものです。

   それは実にシンプルです。なのに、なぜ人間はそれをそんなに複雑にするのでしょうか? おそらく、自分の人生を導いているのは外の力だという幻想を信じているか、あるいはコントロールされているという幻想が気に入っているからでしょう。もしかするとあなた方は、善と悪は一体でなければならないという可能性を体験したいのかもしれません。しかし私たちが共有する、今というこの安全で聖なる瞬間に、あなたはあなたが欲しいものを選ぶことができます。

   マインド(表面意識)は箱です。

   言い換えるならば、表面意識には制限があるということです。それは直線的であり、知っているふりをしてはいますが、マインド(表面意識)は想像することができません。つまり表面意識は、あなたの望む形を現実化することができないのです。

人間は自由意志を他人に引き渡してしまった

   これまで数え切れないほど数多くの転生により生涯を過ごしてきたあなたは、選択と現実化のことをまったく忘れてしまいました。そしてあなたは自分を信頼することもやめました。選択しようとすれば表面意識から出なくてはならず、それはぎこちなくてうまくかないように感じられます。それに加えてあなたには、深い催眠の覆いがかけられているために、自動的にカルマや運命、宿命のようなものを選択してしまいます。

   あなたには芯から怠け癖がついており、意識的に生きることをしません。

   親愛なる友人たち、あなたには本来持つ神性というものがありますが、その自己責任というものを常に他の誰かに任せて満足してきました。そうでありながら、自分の人生の愚痴を言います。私は強調しますが、それはもはや本当のあなたの人生ではありません。「人間にはもうほとんど自由意志がない」と私が言うのは、それが理由です。あなた方はそれを他人に引き渡してしまったのです。

   この概念に取り組むならば、あなたが選択するどのような可能性でも受け入れて現実化することは、とても簡単なことがわかるでしょう。それはすでにそこにあります。あなたはそれを表現し体験したいのかを、選ぶだけでいいのです。 

          

 

1人の意識の拡張が全体にインパクトを与える

   新しいエネルギーは時間と空間を越えています。

   あなた方は尋ねます。「私のこの人生で、新しいエネルギーをどのようにあてはめればいいのですか?」「次に何をすればいいのですか?」「すべてが同時に起きているのですか?」「どうすれば時間を遡ることができ、私は過去を変えることができるのですか? 私は過去を変えたいのです」と。

   時間と空間を超越することはできますが、しかしあなた方が思っているような直線的なやり方ではできません。あなたは言います。「未来に入り、何が起きるのか見てみたい。株式市場がどうなるか知りたい」と。つまりあなたは、これから起きることを知りたいわけですが、それは達成できません。なぜならあなたにとって現実とは直線的な性質を持っていることを前提にしているからです。

   3次元的な人間の旅は、直線的な体験が欲求の基盤となっています。

   言い換えるならば、「明日は何が起きるのだろう?」というものです。実はあなたのもっとも深い自分自身を体験したければ、それは明日ではなく今この瞬間にあります。あなたは何を待っているのでしょうか? あのプロジェクトを終えるまでですか? 違う街に引っ越すまで? もう少し痩せるまで? 新しい情報を手に入れるまで?

    あなたが何か画期的な出来事が起きるのを待っているならば、新しいエネルギーの到来もまた遅らせることになります。なぜなら新しいエネルギーもまた、あなたに合わせて待つからです。それは待つゲームであり、あるいは私はそれを運命のゲームと呼んでいます。「自分に何が起きるか静観してみるべきだ。これを終えるまで何が起きるか待ってみよう」 

   もう充分です。それはたった今ここにあるのです。

   あなたが自分のことをどれほどまともじゃないと思っていても、どのくらい悪いことをしてきたと思っていても、どんだけ悪習慣を持っていようとも、どれほど多くの失敗をしてきたとしても私は気にしません。なぜなら究極的には、失敗などないからです。

   私の失敗とは、クリスタルの監獄から脱出するのに、とてつもなく長い時間(10万年)を要したことです。しかも答えはずっとそこにあったにもかかわらず、あなた方同様、私もそれに気づく代わりに、「ここからどうやって脱け出すか?」というゲームを延々とやっていたのです。

   今こそ、たった今、時間と空間を越えて、何かを待つのを超えて、”たったいま”、自分自身と絶対的に繋がる時です。それが新しいエネルギーをもたらし、マインド(表面意識)を脱け出し、気づきへ入る時です。もうこれ以上待たないでください。それがまさに、”今”です。

   あなた方の意識には、主要なシフトが数回ありました。

   まず第二次世界大戦の直後に大きな意識のシフトが起こり、続いてテクノロジーの変化がありました。そして別のシフトが、60年代初期に起こりました。それは意識における巨大なシフトでした。それが再び、テクノロジーへの進歩の扉を開いたのです。

   60年代後半と70年代初期に、新しいテクノロジーの爆発的増加という点から何が起きたのかを見てください。つまり、意識が拡張すると同時に、テクノロジーや医療、科学、ビジネス、システムが追随するのです。

   ご存知のように、2001年にも大きな意識のシフトがありました。

   それは価値観や倫理観に影響を及ぼし、現在、金融や政治、そしてある程度、宗教にも現実的なシフトをもたらしました。当時に起きた意識のシフトが、今の現実の中に現れているのです。

   そして2007年に、もう一つのシフトがありました。

   それは世界中の人々には注目されることはなかったのですが、実に記念碑的なものでした。それは歓迎すべき招待としてやって来ましたが、「クォンタム・リープ」と呼ばれました。そしてあなた方のほとんどが、何らかの形でそこに参加しています。それは驚異的な新しいテクノロジーをもたらす扉を開きました。ですがその多くは未だ、いうなればデスクトップ上に置かれたままであり、それらはまだ遂行されてはいません。

   ですが2007年に生じた変化は、最終的には新しいエネルギーの解決策をもたらすでしょう。それは肝細胞の再生のような、医療分野におけるとてつもない問題解決策であったり、そして人類が直面しているもので最大級の課題である、”燃料エネルギー”に驚異的な発見をもたらすでしょう。

   この地球世界では、まるで今後30年以内に、現存する資源をすべて枯渇させるようなペースで古い化石燃料を消費していますが、ほとんどの人間はこの事実を直視することを避けています。そこにはまだ多くの石油やガスがありますが、しかし常識で考えてもわかるはずです。

   つまり、「あと1万年分に相当する量の化石燃料があったとしても、自分たちはただ環境を汚染しているだけではないのか?」 ガイア地球が人間たちに与えてくれているこの地球という贈り物に、「私たちはダメージを与えているだけではないのか?」。そうであれば資源がたくさんあったとしても、「現在のペースで燃料を使用し続ければ、私たちは天候や環境への問題をただ抱え続け、持ち運ぶだけではないのか?」、とあなた方の常識は言うはずです。

テクノロジーや科学は人類の意識の拡張に追随する

   必要性が解決策を創造します。

   そして優れた燃料テクノロジーの飛躍的発見が、すぐそこまで来ています。親愛なる友人たち、それらはソーラー(太陽光)や風力ではなく、そのようなものは単なる気晴らしのようなものですが、それは驚異的で純粋なエネルギーでまさに利用できる状態にあります。常温核融合を例に挙げますが、常温核融合の室内実験のいくつかは成功しました。しかしおかしなことが起こったのです。彼らは結果を再現できなかったのです。

   常温核融合の実験は、実際にうまくいきました。

   そこでは(原子)核エネルギーとは違い、特別ネガティブな副産物もなく、エネルギーが形成されました。しかし研究者たちは、その結果を再現することができなかったために、他の研究者や同僚たちから批判を浴びることになりました。

   そこでは何が起きていたのでしょうか?

   それが新しいエネルギーですよ! つまり、同じ状況下であっても、同じ反応を示さないのです。

   その研究者たちは、新しいエネルギーに近いもの、つまり「新しいエネルギー」の影を利用することができました。彼らは時間と空間を越えてそこに入り込み、常温核融合を創造しました。そしてそれが、あなた方がこれから手にすることになる、数多くの新しいエネルギーの燃料源の一つです。

   テクノロジーに注意していてください。

   テクノロジーの解決策がまさに発見される寸前です。彼らは実験室でそれに取り組んでいますが、少しばかり構成要素が不足しています。つまり意識がもう少し拡張するまでは、彼らに不足している構成要素、あるいは最後の捉えどころのない要素を手にすることはないでしょう。なぜなら、テクノロジーと科学は、常に意識に追随するものだからです。

   たった今、あなたが意識を拡張しているこの瞬間に、何が起きるでしょうか?

   それは、あなたが他の人々のために可能性を築いていることです。それが、病気や燃料エネルギー、地球環境などの問題解決に取り組んでいる人たちの可能性を構築しているのです。

   あなたが自らの意識に対してやっている努力やワークは、人類の潜在的可能性にインパクト(衝撃)を与えます。(あなた方は密接に繋がった存在なので)、1人の意識の変化が全体に違いをもたらすことができるのです。私があなた方とこうしたワークをするのを光栄に思うのは、それが理由です。

   

私たちは他人によって準備された「運命」を生きている

   これから私たちは、鍵のかけられた隠された過去の可能性を探っていきます。

   過去は途方もない量の愛を含んでいると同時に、過去は新しいエネルギーと絆(きずな)を結ぼうとしています。しかしそのほとんどが、さまざまな信念体系と歴史の中に閉じ込められています。

   歴史というのはそのすべてが、非常に直線的な形で書かれているので投げ捨てたほうがいいでしょう。これはあなたの自分史だけでなく、この地球という惑星の歴史にも当てはまることであり、さらには地球の創造進化についてあなた方が思い込んでいるすべてのことに該当します。つまり、あなた方が知っていると思っているものは、ごくわずかの真実に過ぎないのです。

   あなたは自分の過去を覗き込んで言います。

   「アダマス、私にはすごくはっきりと確定した過去があります。これが私が生まれた時の写真ですよ。」 実はあなたはごくわずかな過去しか知らないのです。過去の別の可能性には鍵がかけられました。つまり隠蔽(いんぺい)され、極めて巧妙に葬り去られたのです。そのためにあなたは本当の自分自身を知ることはなく、自分は一つものだと思うようになりました。あなたがそれらを閉じ込めたのですが、あなたは自分の代わりに他人を使って閉じ込めさせました。そのようにして、自らをとても狭い領域に規定してきたのです。

   あなたが自分だと思っているその人は、本来のあなたではありません。

   その事実はおそらく、ある人々にとっては喜ぶべきことでしょう。しかしながら、過去の可能性はまだ健在です。それはあなたが、決して焦点を合わせることのなかった現実の数々です。にもかかわらずそれらは、あなたが現実にフォーカスしたものと同じくらいにリアルなのです。

   過去の扉を見張っているドラゴンや悪魔がいます。

   それも、あなたが彼らをそこに置いたのです。それは一つにはあなたを守るために、一つにはあなたが幻想を抱き続けていられるために、あるいは一つにはあなたが過去に行なって来た事への慙愧の念からです。(ざんき・取り返しのつかない深い恥と後悔の念)

   私たちは過去に戻り、別の可能性の数々を訪れることにします。

   それはあなたの過去を変えるでしょう。鏡の中に映る人物は、本当のあなたをよく描写しているとはいえません。私たちが過去に入り、それを今に至るまでのあなたの人間としての目を通して見れば、いくらかは見たくないものをあなたは見ることになります。あなたは1、2年前であれば、まだ準備ができていなかったでしょうが、もうあなたには準備ができています。

   あなたが進む道の一つのステップにおいて、私はあなたと一緒にいるでしょう。

   私から逃げたり隠れたりしないでください。でもあなたがそうするのを私は知っています。あなたが自分自身を、そして自分の(過去の)行動をとても恥ずかしく思い、私がそばにいなければいいのにと思う時があるでしょう。

   親愛なる友人たち、私たちは過去に入り、私たちの未来を発見していきます。

   今の言葉を聞き逃していたらいけないので、念のために繰り返します。「あなたは過去に入り、あなたの未来を発見していきます」。私たちは過去に入り、そこにあるとても活動的で、愛に溢れ、時に怖ろしいエネルギーを開錠します。それはもはや、あなたが監獄に囚われずにすむようにです。

   私がクリスタルの中に10万年いたと言ったら、あなたは笑いましたが、あなたはどのくらいの間閉じ込められていましたか? あなたの監獄とはあなたの過去であり、あなたはその刑に服していたのです。あなたが過去に入り、その一つひとつを開錠すれば、現在が変わります。過去が変わります。あなたの歴史の方向が変わり、すべてが変わります。そこであなたは驚嘆するような、あなた自身に関するさまざまなことを発見するでしょう。

   (この時点でアダマスは、この体験へとグループを導いています。これを個人的に体験することを望むならば、少なくとも45分の間、誰にも邪魔されずにいられる静かな空間を見つけ、アダマスにその体験に導いてくれるように、明確に頼んでください)

   あなたと一緒にこの旅に出るのを私は楽しみにしています。

   それはあなたが、未来の可能性の数々に意識的になれるからです。あなた方の中にはすでに、その未来の可能性の場所がガラクタ置き場になっている人がいます。中には自分の未来に対して、余りにも多くの恐れを持っているので、未来が止まっているように見える人もいます。一般的な霊能者がそのような未来を覗き込んだら、驚いて息を呑んで言うでしょう、「ああ、もう余り長くはないでしょうね」 それは向こう側に余りにも多くの怖れの壁があるので、もう終わりのように見えるからです。

   あなた方の中には、過去の最悪のものを取り出して、それを未来に置いている人たちがいます。それは結果として、何度も同じ事を繰り返すことになるのは必至です。それは何度も繰り返せば、違う結果が得られるかもしれないと思っているからですが、しかしそうはなりません。同じ信念で同じ行動を繰り返すならば、当然同じ結果を得るのです。

自分が創造しないので、運命や他人の創造に支配されるようになる

   中には感じ取れる未来に、ほとんど、あるいは何もない人もいます。

   それはあなたが未来へと拡張し、創造するのを怖れており、間違ったことをしてしまうのではないかと怖れているからです。なので、そこには何もないように見えます。するとあなたには何が起きるでしょうか? 

   あなたは運命や、他のすべての人々の気まぐれに支配されることになります。

   つまり自分のために創造していないので、他人があなたのために創造するのです。ですがそうした状態にかなり満足している人もいます。なぜなら依存せず自力で本来の「創造者」として生きる代わりに、人のせいにして、運命や宿命のせいにできるからです。

   未来は運命づけられているのでしょうか?

   「いいえ」。しかし人間を調査してみると、およそ99・7パーセントの人間は、実際人生をそのように生きています。ほとんどの人々は自分のアスペクト(欲求)に人生を動かしてもらいます。彼らは諦めています。だから運命づけられてしまうのです。

   あなた方は自らのカルマの道をたどり、それが起きるのを許容しています。

   そして言います、「これは私のカルマです」、あるいは「これが神の意志です」と。こうした言葉を使わないにしても、人々は自らの人生に対する責任を放棄しているのです。あなた方は魂は直線的に連続していくと信じており、それに従います。また大衆意識が信じる運命も信じていますが、それはとても分厚く、非常に重いものです。

   選択するということはとても簡単なことですが、そうであっても、それであなたの人生は変わります。しかしほとんどの人間たちは、本当にはそれを望んではいません。ほとんどの人たちは(与えられる)運命の人生を生きています。さらにあなた方がとても強い信念体系を持っていれば、特に宗教や霊的な信念を持っていれば、それが運命を創造します。あなた方は天国への道や地獄への道があると信じており、しかも自分がどの道にいるのかすら分かっていません。

   というわけで、ほとんどの人間たちは確かに(他人によって準備された)運命を生きており、運命を信じています。自分たちの代わりに運命を選択してもらいながら、それを創造したのは神だとして、まったくくだらない神を信じているのです。あなた方にかけられているプログラミングという催眠の覆いはあまりにも強力なために、本来であれば優れた女性であり男性であるあなた方を愚か者にしてしまうのです。

          

 

自分の求めているものは何なのか?

   あなた方多くの人々が聞きます。

   「私はなぜ自分が欲しいものを創造し、現実化することができないのですか?」と。ええ、あなたは完全にそれをしていますよ、と私は答えます。するとあなたは言います。「でもアダマス、それは最低の事柄です」 ええ、そうですよ。だからあなたは今ここにいるのです。つまり、もうエネルギーを搾取される必要はないことを学ぶためです。

   あなたはもう、自分のエネルギーを表現する準備ができています。

   あなたは意識的な存在としてエネルギーを引き寄せ、あなたの創造物に生命をもたらすのです。それを引き寄せるのはあなたです。本当の引き寄せの法則は、つまり現実を創造する能力は情熱と欲求から生まれることです。

   どのような魂を持つ存在であってもその核となる情熱は、自分自身という「セルフ」に帰ることです。あなたは絶対に決して、その繋がりを失うことはありません。あなたがあなたの「セルフ」との繋がりを失くすことは、先ずあり得ないのです。

   魂の情熱とは

 one 自分自身を知ること

 two 自分自身を表現すること

 three 自分自身を進化させること

 four 自分自身に帰ること

   これらが、魂の情熱です。

   あなた自身の魂の情熱を、少しの間感じてみてください。

   それが、あなたの現実を引き起こしているものです。

   私は今、魂の情熱と欲求の4つの基本的な生命を与えました。それは別の言い方で表現することができるものですが、この「自分を知り、自分を表現し、自分自身に留まり、自分をこれまで決して実現することのなかったレベルへ移す」ことです。これらの情熱が、あなたの現実を創造するものなのです。

   それは、社会的な常識に従い、つまりその常識に浸って生きているあなたの思考が現実を創造するわけではありません。メンタル(精神的)な思考にはほとんど情熱がありません。ですからそうした表面意識の思考には、まったくエネルギーを引き寄せる力がありません。

   最近のある集会で、参加者の1人が前に出て質問しました。

   ジェニファーは言いました。「アダマス、私の人生はどうなっているのでしょうか? 私は失業し、離婚し、子どもたちも失い、自尊心も、あらゆる人間関係も、キャリアすら失い、すべてを失くしました。いったい、私の何がいけないのでしょうか?」 私の答えは、「何も」。

   あなたの現実を創造するのは、あなたの深い、内なるフィーリングです。

   それはあなたの思考ではありません。ジェニファーはこれまでの何百という長い転生において、「魂」との繋がりを深く切望し、探し求めてきました。彼女は別の生涯では、あまりに多くを持つことでそのために注意を逸らしてしまいました。つまり過剰な権力と過剰なお金、過剰な人間関係です。そしてある時点で彼女は、「魂」を知るためには、人生のすべてを処分しなければならないと思っていました。彼女は美しい人でしたが、その美しさすら魂を知る妨げになると感じ、それすらを失う寸前だったのです。

排除ではなく、すべてを統合していくこと

   ですが、あなたがそのようにする必要はありません。

   そしてあなた方の中にはそうしたプロセスにおいて、過激な手段を取った人々もいました。自分の人間性は卑しいだけで霊性とは関係ないものと考え、極端に走ったのです。それは宗教的な非常に古い信念です。あなたが自分自身に帰れば、あなたは自らの内なる女性性と男性性、光と闇、人間性霊性を統合することになります。つまり、霊性を持つために人間性を破壊する必要はないのです。それは統合されねばなりません。そして実際に、それは一つになりたいのです。

   ジェニファーは実際、パワフルな「創造者」です。

   自分の注意を逸らすのを回避するために、彼女はあらゆるものを人生から押し出しました。彼女は尋ねます、「何がいけないのでしょうか?」 「まったく何も」。彼女は自分のためにヴォイド(虚空)を創造し、今や彼女が求める「魂」という、彼女自身を知る機会を手にしたのです。

   ここで質問します。

   あなたは何が欲しいのですか? あなたは欲しいものを何でも選ぶことができます。それは人間としての必要性のすべてが満たされながら、しかもなお「魂」との深い、美しい繋がりを持つことができるのです。

   最大の課題は、一つには、あなたは何を欲しいのか分かっていないことです。

   しかも毎日欲しいものが変わります。ある日はこれで、別の日はあれです。欲しいものが分からないので、落ち込み、混乱し、欲求不満を感じます。自分はこれが欲しいはずだ、と思ういろいろなことに惑わされ、罠にはまります。ある日のあなたは人間としての必要性ですが、次の日には霊的な心の必要性が優先されます。あなたは何が欲しいのか分かっていないのです。

   「良い知らせ」は、あなたはまさしく、あなたがいるべきところに、今いることです。

   深呼吸し、あなたがこれに関して、つまり自分が欲しいものが分かっていなくても、まさしく今いるべきところにいることに対して、神に、すなわち自分に感謝してください。

   すると反論する人もいるでしょう。

   「私は何が欲しいのか、本当に分かっています」と。いいえ、あなたは本当は分かっていません。それに対して、あなたは心穏やかでいられますか? あなたはいずれ、何かを「欲しがる」ことを超越します。そして深い、意味のある情熱を持つようになります。それとともに明確さを持ち、その明確さはあなたがこれまでどのように現実を創造してきたかを理解させてくれます。

   あなたは「自分のために」情熱を持ちます。

   「自分への」激しい、表現する愛を持ちます。その時点から先は、本当にもうどうでもいいのです。本物の魂の情熱があればもう何も問題ではなく、問題にする必要もありません。あなたは欲求を超えて情熱に入ります。情熱とは、「私は私である」(アイ・アム)を真に理解していることです。

          

 

「地球に近い領域」幽界では今何が起きているか

いま、何が起きているのだろうか? それは(生命という)神々の戦争である。たったいま、あなた方は地球上のあらゆるところでそれを目にしているわけだ。あなた方はそれを戦争とは呼びたくないかもしれないが、それは地球における完全な全面戦争なのだ。

人間のさまざまな派閥やグループや個人は、(意識してはいないが)自らの神性を理解しようとしており、そうすることで彼ら人間のアスペクト(局面、様相)の多くが入り込むことになり、結果的に彼らは非常に正義感に駆られるようになる。あなたはこうした神々の主張のいざこざを目にしているのだ。

「私の神(宗教、イデオロギー、信念、主義、主張)はあなたの「神」より優れている。もし私に受け入れて欲しければ、私の「神」を信じなければならない」と。

そうしたことのすべては実は、人類が自らの”内なる神”を理解したいという心からの欲求と関係しているが、ほとんどの人間はそれを達成するための概念を何一つ持ってはいない。そこで彼らの宗教の教義や経典、予言者(イデオロギー、信念、主義、主張など)を通じてそれらが外面化されることになる。その結果が神々の戦争なのである。

  • 「地球に近い領域」、「幽界という低層4次元」

ではそうした神々の戦争は、いったいどこで繰り広げられているのだろうか? それは地球上ではない。ある意味、地球にいる人間たちは、こうした「地球に近い領域」幽界で行なわれている神々の戦争の操り人形であり、そこが本物の闘いが行なわれている場所である。

「では地球に近い領域」とはどこにあるのだろうか? それは物理的惑星である地球に近接した、エネルギー的な次元にある。そこは非物質的な場所でありながら、地球と密接な関係にあり、それは地球を取り囲むように存在しており、そこには実に数多くの層がある。

地球の始まり、あるいは地球上に人間がやって来た当初は、実はそうした「地球に近い領域」は存在していなかった。しかし意識体(魂・霊)が肉体に転生し始め、肉体が死ぬようになると、人間は死んだときに地球の体験を手放したくないと思うようになった。その結果、私たちが「地球に近い領域」と呼んでいる、この領域(幽界)に行くことにしたのである。

その場所はあなた方の多くが、転生と転生の間に行ったことのある場所で、ほとんどの人間が死後に行く領域だ。彼らはそこに着いてからも、物理的地球にいた時に信じていたことを、引き続き行ない、体験し続ける。それはこれまでの非常に長い期間、それこそ気が遠くなるほど無数の人間たちの転生が繰り返されてきたことから、この「地球に近い領域」の場所がいかに混雑を極めているかが、想像できようというものだ。

たとえばあなたが仏陀を信仰していて、死後(幽界という)「地球に近い領域」に行くと、その小さな一角の仏陀と一緒にいられると思う場所に行く。あなたはそこで念仏を唱えたり、仏陀を崇拝したりし続けるかもしれない。自分をどれほどよく思っているかによっては、あなたは仏陀に会うかもしれないし、会わないかもしれない。それはともかくとして、実際に仏陀はそこにいるのだろうか? まさかね。

エスを崇拝している人たちも同じである。あなたが強くイエスを信仰しており、イェシュアではなくイエスを救い主だと信じているならば、おそらく死んだ後「地球に近い領域」にある、救世主イエスを崇拝できる場所に行くだろう。実際そこには非常に多くの者たちがイエスを待っており、キリストの再臨と、携挙(けいきょ・再臨したキリストと共に挙げられて永遠の命を得るという終末論)の実現を待っている。

しかし、あなたがイエスに会うことはまずないだろう。なぜならあなたが死後に「地球に近い領域」(幽界)に、なぜ行くことになるかと言えば、すなわち自分という人間にはそんなに価値があるとは思っていないからなのだ。つまり、自分を愛し、自分には価値があるのでそれに値すると思っているならば、あなたはそこ幽界には行かず、どこか別の場所にいるはずだからだである。

同じく、あなたが敬虔なモルモン教徒であれば、「モルモン教の天国」に行くだろう。それも同じことで、(幽界という)「地球に近い領域」にあるモルモン教の天国だ。そこも非物理的次元であるが、地球でのそうした信者たちの特性と密接に結びついており、つまり、自らの信念を行動に移している、似たようなモルモン教徒で溢れ返っている「彼らの天国」だ。

カトリック教徒の中には、自分たちには特別な場所があると思っている人たちがいる。当然そのゆえに、それは「地球に近い領域」(幽界)の中でも彼らにとっては、他の場所とは違うところであるだろう。彼らはそこでもやはり大聖堂や教会を建て、聖人を崇拝し、聖体拝領を行なう。

もしかするとあなたは、自分の子どもたちや愛する人に対してしてきた自らの態度に、後悔や悲しみを感じているかもしれない。するとあなたは「地球に近い領域」(幽界)に居座り、地球にいる家族を導き助けなければと思うだろう。そして結局この罪悪感が、あなたを彼らに、この惑星に結びつけることになる。

人間は死ぬとほとんどの場合、別の領域(この場合は幽界)に行った後も、それまで信じていた宗教的信念を行ない続けるものだ。ユダヤ教徒モルモン教徒、カトリック教徒、イスラム教徒、仏教徒のグループ、その他さまざまな新興宗教など、例を挙げればきりがない。しかも「地球に近い領域」(低層4次元の幽界)では、狂信的な人々は未だに自分たちのグループへ他の存在たちを勧誘すらしており、それはまさに肉体を持っていた時の地球での行動そのままだ。

ちなみに彼らは、自分が実は死んでいることを常に認識しているとは限らない。つまり彼らは合理的な理屈を理解して、「そうか、私は死んだのだ。今自分は本物の天国にいるわけではなく、天国のような場所にいるだけなのだ」と当然わかっているわけではない。

この「地球に近い領域」(幽界)は、このような非常に多くの宗教的エネルギーでとても混雑している。そしてこうした存在たちの多くは、未だに自分の宗教的信念を狂信していることから、ここで争いを始める。しかしこれは必ずしも、地球で行なわれているような、銃や爆弾を使った戦争ではない。「地球に近い領域」(幽界)での戦争とは心理的戦争である。それはエネルギー戦争であり、地球が創造されるずっと前に起きたことのある「天使たちの戦争」に似ている。

「地球に近い領域」(幽界)で起きているエネルギー的戦闘では、宗教の一派が別の宗教の一派と戦う。その勢いを維持し、エネルギーを高めるために、彼らは地球上のある宗教的支配者集団と繋がる。すなわち、それが、たとえばキリスト教会だ。そして地球のこうした組織は、「地球に近い領域」にいるグループにとってのエネルギーセンターとなり、エネルギーの接続点となる。(教会の尖塔はアンテナの役目をしており、信者のエネルギーはこれを通して幽界に送られると言われている)

このように宗教的信念への情熱のゆえに、このエネルギー的繋(つな)がりはとても強固だ。こうした神々の戦争は、現在とても激しくなっており、それは今後何年も続くだろう。これは地球上の宗教団体同士の関係にも影響を及ぼしていく。多くの国の政治機構が、一神教の宗教を基盤にしているために、国家間の緊張も続くだろう。

こうした闘いには、本来多くの宗教が含んでいるはずの愛や霊性は存在しない。それは単なる感情的な対立であり、言い換えれば宗教が持つ教義や規則に関するもので、それは人間によって作られた神を崇拝する手段でしかない。そしてこれは危険なものだ。そもそも神は崇拝を求めることもなければ、される必要もない。

そして宗教こそが、人間をコントロールするために一番手っ取り早く、効果的なやり方なのである。それが現在の地球上でこれまで行なわれてきたことであり、今も行なわれている強力な催眠を与える方法なのだ。この神々の戦争は、今後数年間にわたり重要な要因となるだろう。だが怖れる必要はなく、驚くこともない。だから”関わらないことである!” 関与しないでいなさい!”

そしてあなた方も初期の段階では、あなた独自の神々の体験をしたことがある。つまり、何を信じ、何を信じるべきでないか、あるいは公正さ、自らの判断について、内なる独自の闘争をくぐり抜けてきた。それは自分の良心と判断の元に、何が正しく、何が間違っているか、何が光で何が闇なのかについてであり、このようにして多くの心の葛藤を通して自分自身と闘って来た。

いまではあなたはずっと賢明で、よりバランスが取れており、自らの”内なる神”を理解しようとするまでになった。だから、このような他の神々(人々)の争いには決して関らないでいなさい。

神についての答えは一つしかない。そして、それについての真実は一つだけであり、それは完全に個人的なものである。神についての答えを、さまざまな宗教組織や教会を通して見出すことは決してない。そうしたものはたまにサポートを提供することはできても、あなたに答えを与えることは決してない。

答えは常に内側からやって来る。答えとは「アイ・アム・ザット・アイ・アム」(私は私である)であり、それは解釈を超えたものである。つまり、悟りを誰かから、あるいは何か他のものから得ることはあり得ないということである。

 

 真の思いやり

    天使の知覚の二つ目は「思いやり」である。私はこの知覚が大好きだ。思いやりとは無条件の受容である。それは自分自身を無条件に受容することから始まる。おそらく、あなたにとって最大級の課題は、自分自身を受け入れることだろう。「もしこうであれば・・・」「それから・・・」「でもまだ・・・」といった条件なしにだ。「私がこうなったときには自分を受け入れる」というのはダメだ。それは、今この瞬間のあなた自身を受け入れるという意味である。簡単なように聞こえるが、実はとても困難なのを知っている。

  あなたは言う、「欠点ばかりなのに、そんな自分を受け入れることなんてできない」と。だがあなたが自分に対して思いやりを持っているならば、欠点という幻想は意味がない。年齢や外見、体重、服装、髪型のような俗世間の人間的なことをあなたはよく心配するが、そういうものでさえ、無条件に受け入れるに値するものだ。思いやりとは、同情や憐れみという意味ではなく、単に無条件の受容ということだ。

  自分自身に思いやりを持つまでは、他の人や他の存在に思いやりを持つことはできない。自分は思いやり深い、と思っている人を私はたくさん知っている。クジラを救うことに人生をかけ、熱帯雨林を救い、飢餓に苦しむ子どもたちを救うなど、世間一般を救おうとする人たちのことだ。

  別の領域に旅してまで、迷子になったすべての魂を救おうとする人たちもいるが、率直に言うと、彼らはそこに行く権利はない。このようなものはひどく欺瞞(ぎまん)的な思いやりだ。それはただ気晴らしをしているだけとすら言える。本物の思いやりとは、「セルフ」(自分自身)を「完全」に受け入れている状態のことだ。

  「自分自身」を完全に受け入れていれば、他人への思いやりが何であるかを理解することができる。他人に対して本当の思いやりがあれば、あなたが何かを変えようとすることはない。つまり、誰かを救おうとすることはない。そこには完全な受容と尊重だけがある。

  街角にいる物乞いを可哀想に思う必要はないが、だがあなた方の多くはそう感じる。あなたは言う、「そのように感じるのは正しいことではないのか?」と。あなたが理解するようになると、あなたの思いやりは街角の物乞いを違う眼で見るようになる。あなたは物乞いを可哀想に思うのではなく、彼に敬意を払い、称賛するだろう。「彼はヒーローだ。彼は自分の旅や物語、自分の幻想にあんなに深く飛び込んでる。しかも通りで物乞いするほどのレベルまで行ってる。何て驚くべき創造だ」と。

  障害者を可哀想に思うべきだろうか? いいえ。そうではなく途方もない思いやりを持って、彼らを祝福することだ。彼らが選んだ「旅」に敬意を払ってほしい。彼らの内なる神に、あなたの内なる神からの敬意を表してほしい。「何てすごい創造だ! 自分がやってみたいというわけではないが、あなたは何とすごい体験を創造したのか!」と。思いやりがあれば、これにより「私は誰なのか?」に対する彼らなりの答えであると気づくだろう。

  私は「創造のすべてにおいては、すべて良し(All is well in all of Creation)という言葉でディスカッションを終えるのが好きだ。これは思いやりの声明である。すべてはうまくいく、あるいはむしろ、すでにうまくいったということだ。それは自然のスピリチュアル物理学だ。すべてのエネルギーは解決を求め、意識は進化する。そこには混沌というようなものはない。あるのは、実際に起きていることへの「真の気づき」が欠如しているだけのこと!

  あなたは未来永劫、永遠に地獄に落ちているという幻想を持つことができる。そうした人々を私は知っている。幽界にはそうした人々が何百万人とおり、地獄に行くかもしれないのを怖れている。しかし「地獄に行く」という、そんな現実を創ることにまず感心してしまう。だが最終的には、彼らは自らを自由にするだろう。クリスタルの中に十万年間いた私も、後に自分自身を開放した。だから彼らも脱出するだろう。

  彼らはキリスト信者で、彼らはイェシュアをイエスと呼んでいるが、彼が来るのを待っており、救いに来てくれるのを待っている。そこで私たちはそこに立ち寄って、言う。「ちょっと聞いて。あなた自身が神なんだよ!」と。そして一目散にダッシュしてそこから逃げ出す。なぜなら彼らはそれを聞くと、非常に腹を立てるからだ。それほど怒ることができるなら、十分なエネルギーが動いて、あるいは自分がいかに今もゲームの余韻を引きずっており、地上でのどんなゲームに入り込んでいたかに気づくかもしれない。

  思いやりとは、世界が現在、正確にあるべき場所にあることを理解することである。正確にね。さて、あなたは世界を見回して言う。「地球は混沌としており戦争が終わることなく、動物種の多くが絶滅している」と。そう、その通り。だが彼ら動物たちの多くが去ってしまったのは、彼らがあなた方のためのエネルギー・ホルダー(エネルギーを保持する者)だったからである。つまり、種としての彼らの時代は完了したということ。ではそれでどうなると思うだろうか? 

  彼らは新しい種に取って代わる。つまり、より進化した種に。だからそうしたことを悲しみを持って見ないでほしい。でもあなたは言う。「分かっています。でも人間はクジラを全滅させています」と。そう、多分もっと良い方法があるだろう。でもひょっとすると、それはクジラたちが自ら選んでいることかもしれない。

  私はクジラが大好きだ。地球にやって来た初期の時代、私たちはイルカやクジラに転生したことがある。実際、あなたは岩にエネルギーを入れようとしたがうまくいかなかったので、イルカやクジラのような塩水種に体現した。だから彼らと私たちには強い繋がりがある。

  ではなぜ今、彼らは地球を去ろうとしているのだろうか? クジラはこれまで、あなた方が人間の生物体として転生するうえで、「エネルギー・ホルダー」の役割を担って来た。しかしこれからは、あなた方人間がその責務を完全に引き受けていくことになる。彼らクジラたちは旅立つ時に、もはや単なるエネルギーホルダーではない水生動物種の次なる進化へ向けて、エネルギーの種を残して行く。だから次なる種は、「エネルギーを進化させる者(energy evolver)」になる。

  本物の受容とは、抵抗がなく、正すものが何もない、補修するものが何もない(心の)状態を言う。その意識の状態では、すべてが自然に自動的にバランスを取り戻す。だが、あなたがいじくり回して操作したり、判断し始めると物事のバランスが崩れる。

  たとえば身体は投薬などの治療をしなくても、自ら癒すことができる。もしあなたが多くの薬物療法をしているなら、あなたは自分を信頼していないし、自分自身に対して思いやりを持っていない。人々は薬剤だけでなくサプリメント、聖なる水、魔法の金の粉などを使って治療する。実に次から次へとすごい妙薬が出て来る。だがあなたに真の思いやりがあれば、あなたの「意識体」は絶えず自らを活性化するだろう。

  本当にあなたを癒すことができるものは一つしかない。それは「あなた」であり、それしかない。儀式でもなければ、特別な処方でもない。あなた以外には何もない。つまり、「あなた」以外に、あなたに何かを売りつけようとする人たちは、あなたの持つ弱さ、脆弱性で儲けているのだ。

  他のすべての人に対し、彼らが自分自身で選び、まさに自分で決めた場所にいるということを受け入れることで、思いやりを持ってほしい。これに対して私に腕相撲を挑みたがる人がいる。たとえば私があなたの人生について、「なぜあなたは豊かではなく、身体に病気があるのか? なぜこのようなことが、あなたの人生にあるのだろうか?」と訊ねると、あなたは言う。

  「分かりません。私はそのような状況を欲しいとは思っていないのです」 いいえ。実はあなたはそれが欲しいのだ。そうでなければ、それはそこにはないからである。他の誰かが、あるいは他の何かがそれをあなたに押し付けているわけではないのである。

  他のすべての人に思いやりを持ってほしい。つまり、彼らを変えようとするのはやめなさい。世界を変えようとするのはやめなさい。そうすれば、それはあなたを変えようとするのをやめるだろう。あなたが外から妨害を受けているなら、それはあなたが妨害しているからである。何か他のものを変えようとしたその瞬間に、それがあなたを変えようとする。

  次元間を旅して行く上で、これは重要な概念である。なぜなら、あなたはエーテルの領域を通り抜けて行くことになるからだ。そこは幾分馴染みのない領域(幽界)であり、幽霊や亡霊が徘徊している。あなたが彼らを変えようとすれば、彼らはあなたを変えようとするだろう。あなたが彼らを受け入れれば、彼らはあなたを受け入れるだろうし、もしかすると彼らはあなたの神性の輝きを見るかもしれない。思いやりは、天使の知覚の中でも最も私の好きなものである。        

 

意識が変化するとDNAが変化する

   あなたのDNA(デオキシリボ核酸)は変化しているが、それはあなたの意識が変化しているからだ。DNAの内部で最初に変化するのは祖先のカルマ、つまりあなたの血統である。あなたは通常は、転生から転生にわたり同じ血統に生まれて来る。だからほとんどの場合、あなたは両親や自分の子どもたち、パートナーなどを、おそらく以前にも知っていたはずだ。

   つまり、準備が整い、新たな転生に入る直前に、強力なカルマの引力があなたをその血統へと再び引き寄せる。それはたとえあなたが、「もうあの家族には絶対に戻らないぞ!」と思っていたとしても、(カルマが理由で)それがあなたを吸い寄せてしまう。

   血統はあなたのDNAに織り込まれている。あなたが家族の人たちに外見が似ていたり、似た行動をしたり、もっと言えば同じような考え方をするのはそれが理由だ。

   しかし現在、あなたのDNA構造は浄化され、掃除されることで、自然で純粋な本来のエネルギーに戻ろうとしている。それは素晴らしいニュースだ。なぜならあなたを、家族のカルマから開放してくれるからだ。祖先が残した霊的な負債やさまざまな負担から解放されるからだ。それだけでなく、生物学的に運命付けられたものからも解放する。

   それはたとえば、あなたの家族の遺伝の特徴に癌や糖尿病が含まれているならば、それらはやがて消滅していく。だからあなたはもはや、古い家族の血統に閉じ込められることはなく、あなたは自らが望むイメージに、自分を作り変えることができるのだ。

   DNAコードが洗い流されるに伴い、あなたの外見が変わってくることに気づくだろう。もしかすると目の色が変化するかもしれず、あるいは顔の形が変わるかもしれない。それはある日、あなたが鏡を覗き込むとき、以前の自分の写真に比べ、自分がどれほど変わったかに気づく。体重、あるいは体形に変化が現れるかもしれない。

   あなたは家族とエネルギー的に関わりを持っているが、それも劇的に変化するだろう。あなたの一部は、もうそれほど深い繋がりを感じなくなる。ある朝目覚めたら、家族に対して今までのように、ほとんど親密さを感じなくなっているかもしれない。

   あなたが家族と、強い愛情に満ちた繋がりを築いていたり、あるいは深い関わりを持っていたら、こうした変化はショックに感じるかもしれない。だから、家族に対する気持ちや繋がりに変化が起きても驚かないでほしい。

      あなたの子どもたちに対しても同じことが言える。あなたが父親、あるいは母親であれば、自分がどこかおかしいのではないかと思うだろう。なぜなら突然、その子がもう自分の子ではないように感じるからだ。

   他にも重要なことが起こる。あなたがDNAのコードを解放すると、もうじきあなたの家系に転生するはずの人のDNAコードもまた変化する。もしかするとそれは、まもなくまた戻って来る予定の亡くなった親や祖父母かもしれない。つまりコードが変化することで、彼らが再び、この古い祖先のカルマにはまる必要がなくなるのだ。

   つまり、あなたは自分のエネルギーを動かすことで、彼らを自由にしているわけで、そのようにしてあなたは他の人々の未来の可能性までも変えることになる。これはすごいことだ。

夢の変化

  おそらく私からあえて言うまでもないだろうが、あなたの(睡眠時に見る)夢は最近変わった。それはとても強烈で、時には恐ろしく、色も鮮やかになっている。しばらくはそれが続くだろう。

  眠りに入り夢を見るが、目が覚めるともう夢を見ていないとあなたは思っている。だがそうではない。夢は絶えず生じている。たったいま、あなたは夢を見ている。あなたはここにいるが、別のレベルでまだ夢を見ている。夢は一つだけではなく、それは何層にもわたっている。普段、あなたは眠りにつくまでは、こうした夢の現実から自分を遮断している。そうして眠り込むと、一つの夢の層だけに着地するが、実際には同時に数多くの層が生じている。

  夢は変化しているが、実はあなたが変化しているのだ。今ではあなたは眠りにつくと、同時にさまざまな夢の層に入り込む。それは混乱を招くかもしれない。というのは、あなたの表面意識(マインド)は多次元の思考、より正確には多次元の解釈にいま一つ適応できていないからだ。実際にはあなたは複数の層で夢を見ているが、これからは目覚めている状態でもそれをもっと意識するようになるだろう。

  グッド・ニュースは、同時にたくさんの領域で可能性を体験し、創造することができるということ。そして不快に感じることは、しばらくは夢が非常に紛らわしく思えることだろう。朝、目覚めた時、あなたはそんなものは覚えていたいとも思わない。(夢がうっとおしいので)眠っているより、起きている時のほうが気が休まるかもしれない。

  さらに日常生活の中でも、多重の現実を体験し始める。あなたは意識的に目覚めた状態で、あらゆる別レベルの現実に入り込むことができるようになる。そして現在でも、実はあなたの一部は「新しい地球」を体験している。その気づきを、たった今ここにもたらすことが可能だ。「新しい地球」であなたが学んでいることは、この古い地球にいるあなたを助けてくれるだろう。

  現在あなたは、一つの夢の層において、あなたが人生のほとんどの面で抱えることになった感情的な問題の解決に取り組んでいる。あなたは今、この夢の別の層で、自らの未来の可能性の数々をのぞき込んでいる。それは過去世での未解決の問題や、行き詰ったネガティブエネルギーを体験し、それを解放しようとしているのだ。

  目覚めている間、もし夢の層に気づいているならば、あなたの人生はもっとずっと満ち足りたものとなる。そしてあなたの人間としての部分は一つのアスペクト(状態や進行形)に過ぎないことに気づくだろう。あなたはまったく新しいやり方で問題を解決し、エネルギーを動かす方法を発見するだろう。

  夢は単なるファンタジーではない。それは架空のものではなく、夢は今のこの瞬間と同じくらい重要なものだ。なぜなら夢はこの「いま」の瞬間の一部だからだ。夢とはマインド(表面意識)が、行き当たりばったりに、ただ彷徨(さま)よっているわけではないのである。

  夢は、あなたの神性や、別の領域に存在するあなたの一部からのメッセージである。夢はあなたに話しかけようとしているので、夢を無視すれば眠りが浅くなる。ベッドの脇にメモ帳を置き、夢を覚えているように自分に許可を与え、それを書き留めるとよい。このようにして夢を書き留めていくならば、それはあなたの重要な一部分であることが分かってくる。あなたはこうして夢の言語を理解するようになる。

  私がここで話していることは、本来の神性を自らにを統合するプロセスを歩んでいる人たちのことを話している。つまり、世間一般の人たちの話をしているわけではない。なぜなら、彼らの夢はあなたが見ているものとは違うからだ。

  あなたの夢はとてもシンプルな言語でやって来る。だから現在受け入れられているような、夢のシンボルの解釈本は使わないように。そうした本を持っており、学んだことがあるならば手放すこと。なぜならシンボルはもう違うからだ。

  夢の言語は変化している。あなたの夢は以前より、ずっと事実に忠実だ。あなたが見ている夢の多くは現実に、実際に別の領域で起きている。また夢は、あなたが「新しい地球」で教えていることにも関連している。           

 

 人間は「創造主」であることを忘れてしまったマスター

  I(アイ) am(アム) that(ザット) i(アイ) am(アム) (私は私であるもの)、天界のオーダー、クリムゾン・カウンシルからやって来た、主権の領域のアダマスです。

  あなたはなぜ、これを読んでいるのだろうか? あなたがこれを読んでいるのは、何かを学ぶ必要があるからではない。あなたはすでに、この本の中身をすべて知っている。おそらく、ただ一つ例外を除いては。

  あなたがここにいるのは、「体験」への魂レベルで霊が満たされる体験への準備ができているからだ。生徒が探求をやめると、それが起こる。つまり、彼らは体験し始める。神は体験が大好きだ。そして、あなたもまた神である。

  私はあなたの体験の中では、単なる乗客に過ぎない。そしてあなたが体験している間に助言やアドバイスをする。おそらくあなたにとって気に入らない助言の方が多いかもしれない。私はあなたが自分自身の声を聞くための微妙な声となる。私自身の物語をいくつか話すことで、あなたの物語というのは、ただの物語に過ぎないことに気づかせる。私たちは共に笑い、共に泣く時間を持つだろう。

  最初のページに始まり、最後のページをあなたが読むまで、私は道の一つひとつの歩みにおいて、あなたと一緒にいる。昼も夜も、目覚めている時も夢の中でも、私の仕事は常に、あなたをあなた自身へと連れ戻すことだ。

  特に、あなたがマインド(表面意識)に入り込み、別の領域で迷子になっているような時には、すべてがシンプルで、それがすでにあなたの内側にあることを絶えず思い出させるようにする。神秘的なものなど何もない。もちろん、あなたがそうあって欲しいと思うなら別だが。

  あなたの幸せと満足を私は保証する。自分を信頼すれば、長い間あなたが成し遂げることのなかったものを手に入れることになる。すなわち、それが幸福、安らぎ、達成、そしてマスター性だ。しかも、地球上で肉体の現実を享受しながらだ。無条件に自分を信頼するなら、これらを手に入れられることを私が保証しよう。

  「では、オーラが見えるようになるのですか?」 あなたは訊く。「石をゴールドに換えられるようになるのですか?」 そんなものは子どもの遊びだ。「瞬時に人を癒せるようになるのですか?」 とんでもないこと! それについてはその人が自分自身を本当に解放する準備ができるまで(手出しするべきではなく)、苦しませてあげなさい。なぜならそこには、あなたには想像できないほどの真実があるからだ。

  それは本当に利己的な行為だ。私はあなた方が他人に瞬間ヒーリングを施そうとしているのを見て来た。それは恥ずべきことと、私は本気で言っている。なぜならあなた方は、それを自分のためにやっているからだ。それを行なっている人たちも見てきたが、それは自分がイエスのようだと証明したいからやっているのだ。

  私たちはまったく違うアプローチをする。さまざまな物事で私はあなたに挑戦する。あなたはたくさんの信念を投げ捨てる。あなた方の中には、いくつかの信念にしがみついている人がいる。「このようなものは絶対に手放せるわけがない!」と。そう、でもいつかは手放すことになるだろう。それは泣き喚き、絶叫しようが、そうなる。そうでなければ、完全にそれを受け入れ許すことで手放すことになるだろう。

新しいエネルギーの到来

  今は新しいエネルギーの時代だ。もはやエネルギーは古い時代の時のようには作用しない。現在、あなたの直感的なフィーリング感覚が開こうとしている。あなたはこれまでとは違うエネルギーを感じている。それは定義するのがとても難しいもので、あなたの一部はそれを拒否しながら、別の一部は惹かれている。新しいエネルギーが少しづつ、今地球に入って来ている。私たちはそれに取り組んで行く。

  これから何ヵ月、何年、あるいは何十年、あなたと一緒に過ごすかは分からない。しかし私は、あなたが進む道の一歩、一歩をあなたと一緒に取り組んで行く。あなたが幸せや安らぎ、満足感、それをどのように呼んでも構わないが、それらを手にすることに私は全力を注ぐ。だがそれを見出す直前、あなたは私をボロクソに言うだろう。なぜならそれらを手にする直前に、あなたはまるで自分が完全な混乱と混沌のさ中にいるように思うからだ。

  私がこのように言えるのは、本来のあなたを知っているからだ。それは過去に体験を共有しただけでなく、あなたが自らの魂の道に深い献身をしているのを知っているからである。これまで数多くの挫折をして来たように感じているかもしれないが、あなたは固い決意を持っている。あなたの祈りと懇願を私は聞いた。それが、私がここにいる理由である。

  私たちは難解な奥義には入らない。私たちが共に過ごす中で、何も起こっていないように思える時期があるが、後になって実は途方もないことが起きていたと分かる。新しいエネルギーはそのように作用する。進歩していないように思える時期があり、それからふと、進歩というのは幻想だと理解する。

  私は地球上で数多くの生涯を過ごした。あなた方の多くの人とは、アトランティス時代の終わりの頃に、ティエンの寺院で一緒にいた。私はエネルギー的なクリスタルに閉じ込められ、そこで十万年以上を過ごすという体験を自らに与えた。クリスタルは実在のものだが、それは比ゆ的な意味で私の信念体形の監獄でもあった。

  クリスタルの監獄から自由になった時、私はこれからは常に、率直に自由に生きる誓いを立てた。今後、地球に生まれて肉体を持ったら、私は二度と捕らわれることなく、自分が選んだ役柄を演じて行こうと誓いを立てたのだった。

地球で経験した数々の人生

  一つの人生では、私はイエスの時代のイスラエルに生まれた。私は反抗的なラビだった。その人生でイエスに出会い、イエスマグダラのマリアとともにワークしたのは偶然ではなかった。私の行動は他のラビたちの怒りと懸念を買うようになり、私はラビとしての地位を捨て、イエスと共に行動するようになった。

  彼はヒーラーだった。彼はエネルギーを変容させる人であり、本物の錬金術師だった。私は彼から学び、彼は私から学んだ。私のことは聖書には出て来ないが、それはおそらく良いことだろう。なぜならトバイアスやイエスのように、聖書の中に閉じ込められることがなかったからだ。

  私は他にも数多くの生涯を送った。その中にはあなた方に一番なじみ深いセント・ジャーメインとしての生涯がある。つまりサン・ジェルマン伯爵(はくしゃく)のことだ。またマーク・トゥエインとして知られている者や、サミュエル・クレメンスとしての生涯も過ごした。私はアトランティスの時代だけでなく、その前後にもたくさんの人生を経験した。

人間は「創造主」であることを忘れたマスター

  私はあなたと似ている。ただ一つの例外を除いては。すなわち、私は自分を自由にしたということだ。つまり、人間の現実から、もっと良い表現をすれば、「人間の幻想という制限」から自らを開放したことである。

  あなたと私の違いは、ごく細い線を引いて区別されているに過ぎない。その分け目が「幻想」というものだ。あなたは幻想のこちら側に、私はその向こう側に立っている。それ以外はすべて、私たちは同じだ。

  私たちは天使として出発した。それは地球が存在するようになるずっと前で、私たちは闘い、また戯(たわむ)れた。そして地球にやって来た。それは肉体に生まれ、幾多の人生を送るとはどういうものかを体験するためだった。その間、多様な生涯、さまざまな人格、いろんなアイデンティティを創り出しながら、数多くの存在を体験した。

  違いは、あなたと私の唯一の違いは、「幻想」という線だ。私が「幻想」と言うのは、ある時点でこの世界がすべて「ゲーム」であると気づいたからだ。つまり、私はセント・ジャーメインではなかった。ユダヤ教のラビでもなく、サミュエル・クレメンスでもなかった。

  私はそれらすべてを貫く「アイ・アム(私は在る)」だった。それらの人格は、私が演じたただの役柄に過ぎない。俳優が舞台でさまざまな役に扮して演じるのと似ている。あなたと私の違いは、現在、あなたが非常に真剣にその役柄を演じているということだ。

  あなたは、今のこの自分というアイデンティティこそが、始まりであり終わりであると思っている。だが私は、そのあなたは一時的な役柄に過ぎないと思っている。あなたに敬意と尊敬を払いながら私は、あなたの人間としてのアイデンティティはちっぽけなものだと言おう。それは消えてしまう。あなたが演じているこの役柄、自分はある特定の人間だと思い込んでいるもの、ある特定の職業に就き、特定の場所に住んでいるという独自の自覚など、そうしたものはなくなってしまう。

  後に残るのは、体験の甘美さだけだ。当然、体験はあなたの一部ではあるが、あなたそのものではない。あなたは、自分には痛みや必要性、欲求があるというフリをしている。充分なお金や愛情、支援、チャンスがないというフリをしている。自分はどう生きていけばいいのか、進むべき道がわからないフリをするが、私にとってそれが何より悲しいことだ。

  あなたは、自分にはそれらに対して何の答えもないフリをしているからだ。しかしあなたの内なる「アイ・アム(私は在る)」であるスタンダード(模範的存在)は、すべてがゲームであると理解している。

  あなたは腹を立てるかもしれない。それは私が、あなたの「気の毒な人生」を真剣に受け止めていないからだ。つまり、あまりあなたに同情しない。だがそんなことはもう終わりにしよう。それはエネルギーのムダ遣いでしかない。そして、そうしたエネルギーのムダ遣いをさせる事柄こそが、あなたをこの現実に閉じ込めておく手段なのだから。

  あなたの周囲には、数多くの他の現実があるのが分からないのだろうか? あなたは今この一つの次元だけに焦点を合わせているので、他のことは何も見えないというフリをしている。だが、実はあなたの周りの至る所にさまざまな次元と現実、可能性があるのだ。

  そして、あなたは神や天使に大声で呼びかける。「道を示してください」と。あなたの道は常にあなたと共にある。すでにここにあるのに、あなたは一体いつになったら自分の「道」を見るつもりなのか? いつになれば「道」を感じ、いつになったらその「道」を体験したいと思うのか?

  あなたは言う。「でも、でも、でもアダマス!」 あなたが「でも」と言った瞬間、あなたが躊躇(ためら)い始めた瞬間に、私は立ち去る。あなたの頭の中には「でも」がいっぱいで、その躊躇(ためら)いがあなたをストップさせ、押しとどめる。あなたの「でも」は、時間と意識における戸惑いだ。

  あなたは私に言う。「でも、でも私の家族はどうしましょう」。あなたの家族がどうだというのか。あなたは本当の「スタンダード、アイ・アム」なのだから、躊躇(ためら)ったり、戸惑う人間ではない方があなたの家族は幸せではないのだろうか。

  「でも、でも」とあなたは言う。「仕事はどうなるのでしょうか?」「でも、でもお金はどうすればいいでしょうか?」どちらにしろ、あなたはいつも文句を言っているし、仕事も好きではないようだ。そのような態度ではいずれ無一文になって、飢え死にするかもしれない。多分、死ぬだろう。そしてあなたはあの世へと渡って来て、私たちは長いこと話をしなければならなくなるだろう。

我々の誰もがエネルギーを扱う「創造主」

  豊かさはあらゆる場所にある。それはあなたを取り囲む大気にある。あなたの周りのエネルギーの中にある。自分が透明な泡の中にいるのを想像してみなさい。この泡の中には、あなたが人間として必要なもののすべてが、壮大な豊かさがすべて含まれている。まさにすべてがここにあるのに、あなたはそれを見ようともしない。目の見えない人が大きな食料品店を歩き回り、「食べ物はどこにあるのか?」と言っているようなものだ。手を伸ばせば、目を開ければ、それが至るところにあるのをあなたは見るだろう。

  豊かさを給与というありきたりの方法で手に入れる必要はない。誰かに与えてもらうことで手に入れる必要はない。ただ、それを顕在化させることだ。顕在化するとはどういう意味か? それがすでにそこにあることに気づくということだ。半次元離れたところに、半呼吸離れたところにそれはある。それは入って来てあなたに奉仕する準備ができている。

  この宇宙はエネルギーに満ちている。それはあらゆるところにある。だがエネルギーは活性化されるまでは、中立の状態で存在している。そして、あなたが命じることで活性化されればそれは顕在化する。思い出しなさい。「マスターはエネルギーを自分に奉仕させる」ことを。

  あなたはマスターなので、エネルギーを自分に奉仕させることができる。それはたとえエネルギーが他の人から来ても、あるいはエーテルの中立な倉庫にあっても、エネルギーはあなたに奉仕したいのだ。だがその前に、まずエネルギーが知りたいことが一つある。それはあなたが自分自身を、「創造主」であると認識しているかどうかということだ。

  ほとんどの人間は自分は劣った存在だと認識している。自分は道に迷っており、何をしているのか自分でも分かっていないのだと。人間は自分自身を弱い存在だと認識している。自分を不自由と感じ、歪んでおり、知性があるなどとはとても言えない存在だと思っている。

  するとどうなると思うだろうか? エネルギーはそう信じている通りに、具体的に、文字通りにあなたに奉仕する。朝起きてあなたはこう言う。「ああ、また同じような1日が始まる。人と競わねばならない。緊張とストレスがあるだろう。自分は太り過ぎている。請求書の支払いがやっとだ」。その瞬間、すべてのエネルギーが整列して、その日1日あなたが思った通りに奉仕する。

  だから私は言う。「この日は私のもの、夜も私のものだ」。ここは私の遊び場なので、昼と夜は私に応える。そしてエネルギーはあなたに対してもそうしているが、あなたは気づいていない。すべてのエネルギーがすでにあなたに奉仕している。つまり、エネルギーはあなたの躊躇(ためら)いという「あなたの幻想」に奉仕している。

  躊躇(ためら)い、躊躇(ちゅうちょ)するというのは、他人を幸せにするために自分が妥協しなければならないと思うことだ。躊躇(ちゅうちょ)するのは、あなたが大胆で勇気ある一歩を踏み出すのを怖れているからだ。

  ある意味で、あなたには拍手を送らなければならない。あなたはマスターだからだ。ある意味、あなたはうまくやっている。それは日々、あらゆる瞬間に起きている。「私は在って在るもの」と言わずに、ほとんどの人間が「私は在って在るものではない」と言っている。するとエネルギーは入って来て、一日中、一晩中、絶えずあなたの「ない」に奉仕する。

我々は自分が選んだ人生ゲームをしている

  とはいえ、あなたがくぐり抜けているものを、私は正確に理解している。私は自らの監獄に十万年以上も閉じ込められていたが、少なくともあなたは私よりは賢明だ。あなたは十万年も立ち往生することはないだろうし、おそらくほんの数十回の転生で済むだろう!

  あなたは訊く。「アダマス、なぜこんなに難しいのですか? なぜうまくいかないのか? なぜ、こんなくだらない人生を送っているのか? なぜ?、なぜ?」 答えは、あなたがそのゲームを選んだからだ。誰もあなたの代わりに選んだわけではない。つまり、そこにはあなたがそのゲームを好きになる何かがあるということ。そうでなければあなたはゲームをプレーしていないはず。それだけだ!

  次のように訊いた人もいる。「アダマス、私はなぜこんな惨(みじ)めな恋愛関係を続けているのですか?」 なぜなら、あなたは犠牲者を演じており、その状態の何かが大好きだからだ。「アダマス、私はなぜ病弱なのですか?」 あなたの健康状態が崩れているのは、自分の身体を信頼できず、自身の身体に治させることをしないから。「アダマス、私はなぜ精神的にこんなに落ち込んでいるのですか?」 精神的に落ち込んでいるのは、あなたが本当に生きたいのかどうか、自分に確信が持てないから。

  あなたはゲームをプレーしているが、いつでもやめることができる。なぜなら、ゲームをする状況に自分で自分を陥れたわけなので、抜け出すことも当然できる。あなたは実に多くの悪霊や大蛇を内に持っている! だがそれらは単に、行き詰ったエネルギーであるに過ぎず、必死にその行き詰まりを解こうとしているだけに過ぎない。(ネガティブなエネルギーは行き詰ったエネルギー)

  ゲームは、すでに古びた退屈なゲームに過ぎない。あなたはいつでも好きな時に、メリーゴーランドから飛び降りることができる。そうすると、あなたの人生は変わる。その準備はできているだろうか? だが実際には、ほとんどの人はできていない。つまり、ゲームが自分の人生を定義しているからだ。しかも人生ゲームなしでは、ほとんどの人は自分が本当に「生きている」という感じがしない。

  だが、そこがあなたの誤解しているところだ。なぜなら結局、ゲーム、問題、危機というものこそが、あなたが意識的に生き、気づきを持つのを妨げることになっているのだ。あなたの人生が、あるいは一部にでも困難なものがあるとすれば、それはあなたがその中の何かが大好きだからだ。そうでなければ、そのようにはならない。そのエネルギーがどのようにあなたに奉仕しているかを特定し、あなたはそれを手放すことができる。

陽(タカムスビ)・中(アメノナカヌシ)・陰(カムスビ))

時間的には・・・過去・現在・未来

生命的には・・・先祖・自分・子孫

空間的には・・・天・人・地

霊的には・・・神・顕・幽

位相的には・・・陽・中・陰

「天地不二  神人合一

天(アメ)は地(ツチ)なり

地(ツチ)は天(アメ)なり

不二なり   アメツチなり

神は人なり  人は神なり

一体なり   カミヒトなり

神・幽・顕を通じ   過・現・未を一貫して

神と人との大和合   霊界と現界との大和合をなし

顕・幽・神   一体大和楽の光の国実現を以って教旨とせよ」

「天地不二」・・・空間的合一観である「ナカイマ」

「神人合一」・・・霊的一体観である「ナカイマ」

「アメはツチなり」「ツチはアメなり」・・・霊的存在=物質的存在

「神は人なり」「人は神なり」・・・大宇宙=小宇宙

「神・幽・顕を通じ   過・現・未を一貫して  神と人との大和合   霊界と現界との大和合をなし   顕・幽・神  一体大和楽の光の国の実現」・・・霊的空間「ナカイマ」と通じ、過・現・未という時間的「ナカイマ」を一貫し、神と人とが共に大和楽という光の国である高次元の世界を創り為すということである。

中今(なかいま)   神道における歴史観の一。時間の永遠の流れのうちに中心点として存在する今。単なる時間的な現在ではなく、神代を継承している今。過去と未来の中間にある今。今の世。すぐれた世として、当世を賛美していう語。涅槃(ねはん)・ニルヴァーナ・刹那(せつな)となり、「煩悩が消え、悟りの境地に達した」状態。